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第1章「あゆみ・創立期」

紳士の育成目指し開学

創立のころの校舎全景
 大正十一年三月十五日付の静岡新報(現静岡新聞)は、「各中学校志願者激増」の見出しで、県内各中学の翌年度入学希望者がいずれも定員の四―五倍に達する見込みと伝えている。浜松西高の前身、浜松第二中はこの進学熱の高まりを背景に、大正十三年四月、開学した。この年、県内では富士中(現富士高)庵原中(現清水東高)、志太中(現藤枝東高)の三校も開校。中等教育が急速に普及していく。

 浜松第一中(現浜松北高)の教頭から二中の初代校長となった松田与惣之助は、自由な気風の中で厳しい自己管理も求めるイギリスの名門パブリックスクール・イートン校を理想に掲げ、「ヤング・ジェントルマンの育成」を目指した。

 一回生の鈴木弘(昭4卒)は「校長はわたしたちをありきたりの田舎の中学生として育てたくはなかったらしい。よく英国の紳士や学生について語られた」と述懐する。校長が採用した折り目の入ったズボンや脱帽敬礼は当時としては異色で、ゲートル巻きに挙手の礼が一般的な中、遠目にも二中生と知れた。

 開学までの道は平坦ではなかった。初年度は校舎の建設が間に合わず、三倍の難関を突破した一回生百人は、入学から十カ月あまりを名残の浜松師範学校の仮住まいで過ごす。用地選びが難航したためだ。

 当初から第一候補地だった西山は、急な傾斜地で造成費がかさむことが予想された。工事の入札は予算超過で折り合いが付かず、県は土地の変更か予算追加の選択を迫られる。三方原や曳馬など複数の代替地が検討され、住民らの誘致合戦も起きた。

 県が予算追加を決断し、工事が始まったのは、予定より半年以上遅れた大正十三年二月。本校舎が完成したのは、その約一年後だった。当時の教頭、故岩城(宮田)武男は、二日間にわたった引っ越しの様子を、「道路もない中を、机を担いだり、荷車に乗せた戸棚や靴箱や書物などを引っ張りながら運び、へとへとになった」と後に書いた。

 明るいコバルトブルーの壁面、屋根がわらの乗った和洋折衷の木造校舎は、見晴らしの良い西山台で空に映え、市民の評判を呼ぶが、樹木もない石だらけの校庭の整備は難題だった。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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