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第1章「あゆみ・創立期」

名物の2万メートルマラソン
2万メートルマラソンのスタートを切る生徒ら=昭和6年の「卒業記念帳」から
 土埃の立つ東海道の松並木の間を、白い体操着の一群が息を弾ませてやってきた。道路わきの検問所で教師から次々に通過証を受け取り、からりとした秋空の下、競い合ってひたすら東を目指す。

 「一度止まったら二度と走り出せないと思った」。和田忠一(昭10卒)は、先頭集団を走った一人。「最後の年くらいはいい成績を上げようと思い、同期の早いやつと一緒に大会に向けて走り込んだ。そのかいあって八位に入賞した」。

 十一月恒例の二万メートルマラソン大会は、臨海訓練と並び、創立期の代表的行事。大きな校章のデザインが胸に付いた体操着で走るため、すぐに二中の名物行事として知られるようになる。初代校長松田与惣之助は開始に先立って自らコースを歩き、「自分の足で三時間。君たちは若いのだから、この時間以内に戻れるはず」と激励した。

 生徒らは校庭をスタートし、雄踏街道をひたすら西へ。雄踏付近で東海道へ出て向きを変え、一路、西坂下のゴールを目指した。当時の記録では、先頭集団は一時間半ほどの好タイムで完走しているが、大きく遅れると悪知恵を働かせる生徒もいた。

 雄踏街道を左折して東海道に出るまでの間を通っていた東海道線のわきの小道は、格好の近道。検問所の存在を知らずに入り込んだ集団が、こってり絞られ、二日間の停学処分を受けたこともあった。

 昭和六年発行の「爾中同窓会誌」創刊号には、卒業生らが、必ずといっていいほどこのマラソンについての感想を残している。岡部政裕(昭6卒)は、「東海道に出ると、幻のような並木が延々と続き、いつまでも果てしがなかった」とその苦しさを書いた。

 剣道の寒げいこや全校大会など、全員参加の鍛錬はほかにも数多く、生徒らは厳しく指導された。その一方で、京都などへの修学旅行や、希望者による富士、アルプス登山なども行われ、楽しみは尽きなかった。

 やがて二代校長阿部三四に代わって迎えた昭和六年は、運動部創立の年。対外活動が認められるようになり、柔道も解禁された。部活動が盛んになっていくが、修養道場「自彊(じきょう)館」での早朝正座が新しく始まるなど、全員参加の修養は引き続き重んじられた。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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