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校舎の東には、松のまばらに生えた坊主山がこんもりとあり、晴れた日には、北側の丘陵の上に富士や南アルプスが遠く姿を見せた。南側には一面に田んぼが広がり、遠州灘の波が白く光った。 昭和初期までは、周辺にもいくつかの小高い丘があり、一帯では茶や梅、カラスムギなどの栽培も行われていた。春には菜の花やツツジが咲き乱れた。森岡晃(昭15卒)は「昼休みや放課後に周囲を散策するのは、本当に楽しみだった」と記念誌に記す。 昭和七年から在職した三代校長峯田亀太郎(故人)のころまでは、初夏の茶摘みや秋のサツマイモ掘りなど農作業も盛んに行われた。坂の下からの肥料運びに音を上げたのは、このころの卒業生の共通の思い出だ。茶などは周辺で販売し、売り上げはクラブ費の足しにした。 見晴らしの利く坊主山の頂上は手旗通信の訓練の場でもあり、手旗山として親しまれた。体育の授業にもしばしば使われ、豊田江二郎(昭9卒)は「ラグビーもどきのボールの奪い合いをして、山の上を走り回った」と懐かしむ。秋の穏やかな日差しを浴びながら枯れ草に寝ころんで友達と語り合った思い出を持つ岡部政裕(昭6卒)のような卒業生も多い。 校庭西端のテニスコートからがけを下ると、調整池があり、フナなどが生息していた。松井一(昭14卒)は「仲間を誘ってよく釣りをした。帰りには西坂の下の福多屋で、どら焼きを巻いたような大きな“あんまき”を買った」と当時の楽しみを思い出す。 こんな牧歌的で、歳時記に囲まれたような環境も、開発の波の中で次第に変化していく。創立十周年を祝った翌年の昭和十年には、鉄道院浜松工場(現在のJR東海浜松工場)に続く鐘紡の工場誘致で、用地造成のため西山台の西に並んでいた天王山が切り崩された。宅地開発も進み、往時の面影を知るには、わずかに残る当時の資料を見るか、創立期の卒業生の記憶をたどるしかない。
(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)
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