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第2章「戦争の影」

厳しさ増した進学指導
記念館「望洋台」の資料室に残る当時の生徒のノートや教科書
 校舎正面に続く東坂に沿って、全校生徒がずらりと直立不動の姿勢で並んでいた。坂の下から、教頭らに付き添われた新校長六浦嘉一郎(故人)が、ゆっくりと上がってくる。前を過ぎる時、生徒らは事前に指導された通り、一斉にさっと頭を下げた。

 松井一(昭14卒)は、六浦の着任の日をよく覚えている。二・二六事件直後の昭和十一年春のことだ。同年一月には先代校長峯田亀太郎が病気で急逝し、浜松市長ら約千人が列席した盛大な学校葬が執り行われていた。

 反骨精神おう盛だった松井はこの時、頑として礼を拒んだ。「天皇陛下じゃあるまいし、ばかばかしいとね」。松井は即刻、教員室に立たされる。「二時間たっぷり。その後もしょっちゅう立たされた」  ケンカやいたずらの“黒幕”の嫌疑で、教育勅語の書き取りを命じられたこともたびたび。卒業までには内容をすっかりそらんじた。「校長の机の目の前でやらされたが、先生はどんなに遅くなっても待っていた。最初はいけ好かないと思ったが、厳しいだけでなく人間的な先生だった」

 開学以降、作業活動の重視など、独特ののんびりした気風の二中も、六浦校長が就任すると、進学指導がぐっと厳しさを増す。「一中に追い付け、追い越せ」と、進学率の向上策として、進学組と実業組にクラス分けも行われるようになった。

 月二回の校内実力テストが定例となり、結果は常に張り出された。五年生を緊張させたのは、四、五年生共通のテスト。四年生が上位にランクされることもあり、競争心は高まった。実力テスト以外にも、学科ごとの模擬試験は毎週のように実施された。

 昭和十三年に発行された学校誌「爾中」第二十四号には、英語教諭の大谷稼苗(故人)が、「まず計画を作成し、必ず実行することが第一歩」「三年生以上は自宅で一日三時間以上、四時間は勉強するべき」などと、受験に向けての心得を記述している。

 中村弘(昭13卒)は「進学組は文科系、理工系それぞれに各人の受験科目の授業だけ勉強すれば良いことになった。自分は理工系だったので、文科系の素養が不足してしまったのは残念」と思い出を語る。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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