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戦火が広がり、敵国語の英語の教師には受難の時代でもあった。渥美信行(昭17卒)は「英語の授業がだんだん減り、陸軍士官学校の試験などは英語は不要。佐藤先生も内心忸怩たる思いだったろう」と語る。このころ富山で英語教師をしていた坂田秀夫(昭8卒)も「授業は半分になり、英語は極端に疎外された」と英語教育が姿を消していった様子に触れた。 代わりに増えたのは配属将校による軍事教練。多くの生徒が「校長の次くらいに偉かった」と語る通り、当時の卒業記念写真には、校長の隣に軍服に身を包んだ将校の姿がある。教練の成績は受験にも影響した。「教官ににらまれて、丙でも取ろうものなら、進学するのも軍隊に入るのも大変だった」と加藤幸男(昭15卒)は振り返る。 行進や空砲打ち、ほふく訓練など校庭での教練のほか、中田島での野外訓練や、富塚にあった実弾射撃場での射撃訓練も頻繁に行われた。四ツ池の市営グラウンド造成などの勤労奉仕も、時間割に組み込まれた。 二中生のシンボルだったプレスの利いたズボンに革靴、帽子を取って頭を下げる礼も、昭和十三年にはゲートル巻きと挙手の礼に変わった。「しかるべき筋から圧力がかかった」と生徒の間ではうわさされた。 松井一(昭14卒)はゲートル着用に最後まで抵抗した。「三年くらいから急に巻けといわれるようになった。強制されるのが嫌で、仲間と五人で頑張ったが、十日間謹慎させると言われてあきらめた」 引佐町の奥山を目的地に野営をしながら五十二キロを行軍した夏季宿営演習、富士山のふもとでの総合演習など、肩に食い込む三八式歩兵銃を担いでの軍事演習は、昭和十六年の太平洋戦争開戦からいよいよ厳しくなった。 修学旅行も昭和十五年卒業組の伊勢参りを最後に取りやめになり、精神修養と称して奥山や春野町の秋葉山を泊まりがけで歩いた。
(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)
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