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第2章「戦争の影」

軍需工場通いが日課に
戦時中の卒業生らが裏にメッセージを書いて配り合った「交換写真」。卒業アルバムはなかった
 赤土を塗ってナンバーを隠した燃料補給車が、たわわに実を付けたカキの畑の横に止まった。運転席から降りた島津正(昭20卒)は打ち合わせ通り、ボンネットを開けて故障を装った。運転台や後ろのタンクから飛び降りた五人ほどの仲間がさっと畑に駆け込み、一斉にカキをもぎ始める。

 そこに「待て!」の声。「しまった、見つかった」。鬼の形相の農夫に、島津らは泣きを入れた。「航空分廠で働いているが、腹が減ってどうしようもない。力も出ない」。平謝りする島津らに、農夫は仕方ない、という顔をした。

 「取っただけくれてやる、と言われた。ありがたかった」と島津は農夫の温情を思い出す。「悪いことをしたもんだが、とにかく腹が減って。三方原のあたりにはカキやモモ、ビワなどの畑があって、食糧確保にはいい環境だったね」と片目をつぶる。

 それまでは農作業手伝いなどの勤労奉仕に励んでいた二中生だが、昭和十九年七月に学徒動員令が発布されると、軍需工場通いが日課となる。

 島津ら五年生は、現在の本田技研工業の辺りにあった各務ケ原陸軍航空工廠浜松分廠へ。当時東田町―奥山間をつなぎ、煙突の形から「ラッキョウ軽便」と呼ばれた奥山線などで通勤し、戦闘機の整備などに従事した。

 牽引車やプロペラを始動させる始動車などを操作するため、当時はまだ珍しかった自動車の運転を学んだり、整備責任者として戦闘機の試運転に同乗した生徒もいた。

 四年生と三年生の一部は高塚の鈴木織機(現スズキ)へ配属。「12コH」と呼ばれた直径十二センチのB29迎撃用高射砲弾の製造を担当し、抱えきれないほど重い鋼鉄の筒を運び、旋盤で表面を削った。

 残りの三年生は石川鉄工所(現ソミック石川)、大東機工などへ動員され、学校へ残ったのは一、二年生のみ。空いた校舎には海軍経理学校の生徒が入り、共に学んだ。  動員先では、配属将校などの厳しい見回りもあったが、生徒たちは明るく、たくましく日々を過ごした。

 鈴木織機組には、監視の目を盗んでは、旋盤のスイッチを伝って工場の屋根へ脱出し、休憩を取る猛者も。また通路を挟んだ向こう側では、誠心高等女学校(現浜松開誠館高)の生徒が働き、言葉を交わすことこそなかったが、白いエプロン姿の女学生に胸をときめかせた。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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