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浜松への空襲は、昭和十九年の十二月十三日から二十七回に及び、生徒らが勤務した航空施設や軍需工場は、第一の標的となった。楊子にあった石川鉄工所の工場では、B29の爆撃で二中生八人と、職員二人が犠牲になった。 その日、中島の自宅にいた島津正(同)は、後輩らのいる工場が爆撃されたと聞き、現場に駆け付けた。「とても正視できなかった。工場はめちゃめちゃになり、敷地を囲む槙(まき)の木に、肉体の一部のようなものがひっかかっていた」 戦闘機による爆撃に加え、海からの艦砲射撃。次第に敗戦の気配が漂う中、生徒らの生活は常に死と隣り合わせだった。山本勇夫(同)は動員中の登校日の帰り、鴨江で被爆者の搬出を手伝ったのを覚えている。防空壕ごと埋まった女性と子供の遺体を掘り起こした。 「血は流れていなかったから窒息したのだと思う。遺体は鴨江観音へ運んだが、境内には、爆撃で吹き飛ばされて、血まみれになった遺体も並んでいた」 工場での重労働で、けがも絶えなかった。古橋広之進(同)は、砲弾を削るための旋盤で左手の中指の先をバラバラに切り、指先を切断しなければならなかった。 昭和十九年十二月七日には、東海地方一帯を東南海地震が襲った。浜松市では工場などを中心に約千八百戸が全半壊し、二十一人が死亡。鈴木織機でも四棟の工場が倒壊した。多くの生徒が立ち上がることもできず、はって逃げたが、生徒らのいた棟は無事だった。 二年生だったため学校に残っていた松本利夫(昭23卒)は、大きな揺れに驚き、けいこをしていた柔道場から飛び出した。「プールの水がうねってあふれ、校庭が洪水のようだった」という。 混乱の中でも冷静な生徒はいた。脇本新一(昭20卒)は後に戦時を振り返り、こうつづった。「国のため、戦争のために生きるのが当然とされ、批判の余地はなかったが、不思議と暗いイメージはない。目標を持ち、生きがいもあった」
(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)
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