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「今では考えられないことだが、当時は勅語を焼いたとなれば大事件。学校でも極秘扱いだった」という当時社会科担当教諭の高藤昇の言葉を裏付けるように、勅語の焼失は、六浦嘉一郎校長の進退問題に発展する。 「道ハ甚ダ遠シ而シテ其ノ任実ニアリテ汝等青少年学徒ノ双肩ニ在リ」などと、学生らに時局への理解と貢献を求めるこの勅語は、当時は“学校の宝”。白い絹に包んで桐(きり)の箱に入れられ、学校正面にあった奉安殿に、天皇の御真影などと一緒に収められていた。行事の際には、校長が生徒らの前で奉読した。 この時も、近々奉読の予定があり、傷んだ表装を新しくしようとしたらしい。高藤はこのころ、先輩教師に生徒と一緒に爆撃を受けて壊れた民家のような場所に連れていかれた。「がれきを取り除いて何か出てこないか探すように指示された。はっきり言われなかったが、思えば勅語を探していたのだと思う。その時は何も出てこなかった」 就任時から厳しい進学指導を進め、多くの生徒が「威厳ある、先生らしい先生だった」と懐かしむ六浦だが、県への届け出なしに勅語を補修に出したことが問題とされ、日を置かず辞任となった。 沼津中(現沼津東高)の教頭から後任として着任した伊藤新七郎(故人)は後に、「不運な事件。勅語は生徒職員の命よりも大切とされた時代だった」と振り返った。 戦局はその後ますます悪化し、二カ月後には終戦を迎える。勅語は無効となり、奉安殿も撤去されるが、六浦が学校に戻ることはなかった。 二中のあった西山台は、艦砲射撃で東西の坂の中腹に穴が空き、焼夷(い)弾の攻撃にもさらされたが、校舎は奇跡的に焼失を免れる。戦後の歩みは、三十八歳の若々しい伊藤校長とともに始まった。
(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)
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