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緊張した表情で応対する伊藤新七郎校長以下をしり目に、長崎らは密着取材を開始。英語教師の野村直壮(故人)の通訳で矢継ぎ早に質問を繰り出し、来訪のいきさつまで聞き出してしまった。「高台にそびえる大きな建物を、旧日本軍の施設と疑ったらしい」 新聞部の取材で嫌疑は晴れ、将校らは「生徒が自主的に活動し、民主的ですばらしい学校」とコメントを残して去った。 戦後間もなく学校新聞の発行がブームになり、二中でも昭和二十二年六月、第一号を発行した。西坂脇のバラックの部室を根城に、最盛期にはほぼ月一回、時には月二回にわたって発行し、読む物に飢えた生徒らに絶大な支持を受けた。 昭和二十六、七年ごろには、印刷を静岡市の静岡新聞社本社で行ったことも。紙面もタブロイド版から普通の新聞サイズのブランケット版になり、県内の新聞コンクールで三位入賞したり、八ページの記念号を発行するなど存在感を誇った。 新聞部を陰で見守り続けたのが、創部以来二十五年にわたり顧問を務めた国語教師の仲村泰二(故人)。内容も書き方も一切指示せず、徹底して生徒の自主性を重んじたが、伊藤庄平(昭29卒)は「先生が一度だけノーといったことがある」と語る。 昭和二十六年十一月号の吉田堯躬(昭27卒)の論説「天皇と捧げ銃と」を、「学校新聞にはふさわしくない」と指摘したのだ。仲村は刷り上がってきた新聞の販売を差し止めると、部長だった城内康光(昭28卒)らを引き連れて静岡新聞社へ直行。列車の中で差し替え用の部説を書かせ、刷り直して翌朝には何もなかったように発行した。 伊藤は「血気盛んなわれわれと学校の方針との板挟みで、大変だっただろう」と苦労をしのぶ。 仲村は昭和四十八年、定年退職。これを聞いた伊藤喜国(昭26卒)、木全富雄(昭28卒、旧姓酒井)、小池啓之(昭29卒)らOB有志は、創刊号から一号余さず探し回って「西高新聞」の縮刷版を作り、泰二の名にちなんだ泰山木の木とともに、感謝を込めて仲村に贈った。
(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)
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