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第3章「あゆみ・復興期」

弁論部、県内外で活躍
校内弁論大会の様子や弁論部の活躍を伝える当時の西高新聞
 「どうする、出場できるか」。昭和二十六年十一月。静岡大学工学部主催の県西部高校対抗の弁論大会を翌日に控え、小出幸男(昭28卒)は、他の弁論大会から浜松へ戻ったばかりの今井弘明(同)、藤波健(同、故人)と顔を見合わせた。準備が全くできなかったからだ。「なんとかなるだろう。朝早く集まれ」

 やっつけの打ち合わせで臨んだ本番だったが、初戦でライバル北高の男子チームを破って波に乗り、とんとん拍子に決勝へ。夕闇が迫り、明かりの入った大講堂で、今度は北高の女子チームと対戦した。  テーマは「戦争は科学を発達させるか」。小出らは、「必要は発明の母。強烈に競り合う戦争のような時にこそ、科学は躍進を遂げる」と論陣を張り、代わる代わる力説した。

 内容にも説得力があったが、何より「チームワークの良さ」が評価され、よもやの優勝。小出は、「原稿もなかったので、一人が詰まったらすぐ次が出ろと示し合わせてあっただけ」と明かす。

 この日の結果は翌朝、地元紙や全国紙に写真入りで報じられ、大会への参加も知らされていなかった学校は、ちょっとした騒ぎに。「なぜ言わなかった」。教師らは驚き、喜んだ。

 弁論の自由の風潮の中、議論することは一種の流行。大学などが主催する高校生の弁論大会は、各地で頻繁に行われた。戦後間もなく発足した西高弁論部も、県内外を飛び回り、各地で好成績を上げた。  翌二十七年には、まだ数少なかった女生徒の一人、加藤真代(昭29卒、旧姓大西)が国学院大で開かれた大学主催の弁論大会で、日本の氏子制と宗教の自由を論じて一位になり話題をさらった。

 「どんな課題を与えられても五分や十分は話せる、という自負があった」と小出が語る通り、日々の活動では、政治や哲学、宗教などあらゆるテーマで討議。日が暮れても決着せず、帰り道の真ん中でつかみ合いになるほど議論を白熱させることもあった。

 夏休み中に、米津浜でキャンプ合宿を行ったことも。海に向かって声を鍛え、講堂でのリハーサルでは、響き渡る大音声で運動部の猛者たちをぎょっとさせた。

 校内の学級対抗弁論大会も盛んで、当時の西高新聞は結果とともに、「ヤジが場内いっぱいに流れ、弁士が立ち往生する場面もあった」とその様子を伝えている。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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