<26>

第3章「あゆみ・復興期」

青バットの打球に興奮
大下弘(前列左から3番目)ら、プロ野球選手を囲んで写真に収まる野球部員ら=昭和24年
 プロ野球の人気が高まりつつあった昭和二十四年十月三十一日、東急フライヤーズのスター選手大下弘が、吉江英四郎、米川泰夫両投手とともに、西高野球部を訪れた。巨人の“赤バット”川上哲治選手と並んで“青バット”の名で親しまれ、絶大な人気を誇った大下の来訪に、生徒らは興奮した。

 野球部でセカンドを守っていた市川利夫(昭26卒、故人)は「シートノックを受けたが、いきなりサード寄りに強烈なゴロ。打球が早く、とても追い付けなかった」と書き残す。捕手鶴田悟(昭26卒)も「何本か打ち上げてもらったフライが、高すぎて目がくらみ、一本も取れなかった」と悔しがる。

 打撃のデモンストレーションでは鋭い打球音を残して、白球が当時の校舎の二階を軽々と越えていった。岡本良数(昭27卒)は「度肝を抜かれた。部員では、校舎の壁に当たるだけでかなりの強打者だった」とその時の驚きを語る。

 野球部は、後に監督となる鶴田、河合孝雄(昭26卒)のバッテリーで、秋季大会の県西部予選で優勝、県大会への出場を果たしたばかり。県大会での結果は振るわなかったが、プロのレベルを目の当たりにし、大いに刺激を受けた。

 大下の来訪は、野球部の後援会長をしていた電器堂社長の加茂雅章(昭11卒、故人)や当時の監督、中山武(故人)らの骨折りで実現した。中山は、巨人軍で沢村栄治投手とバッテリーを組んだ元プロ。中日や明治大で監督経験のある岡田源三郎がゲストコーチに招かれたこともあり、生徒らはプロの空気を肌で感じる機会に恵まれた。

 前島貞三(昭26卒)はノックの度、中山に「おーい、ライハチ(ライトの8番)」と大声で怒鳴られた。「層の薄いわれわれの時代では、ライトは補欠とレギュラーの間のポジション。面白くて人間的で、口の悪い人だった」と懐かしむ。

 固くて石だらけのグランドに、十分に整わない用具。食糧も満足でなく、合宿は米や野菜を持ち寄ってしのいだ。俊足を生かして、近くの畑から野菜を失敬したOBもいる。野球ざんまいの日々の思い出は尽きない。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

浜松市立高百年 掛中・掛西百年史 榛原高校百年 引佐高の百年

沼津東高百年 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 田方農高の百年

静岡新聞へ