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第3章「あゆみ・復興期」

校舎焼失、再建に奔走
炎上する初代の西高校舎=昭和29年7月5日未明
 その日、校舎本館一階の宿直室で眠りに就いていた英語教師の坂田秀夫(昭8卒)は、ガンガンと窓をたたく音に目を覚ました。「火事だ!」外へ飛び出すと、むっとする熱気と、きな臭いにおい。北校舎が真っ赤に燃えていた。

 社会科教師だった児玉二郎は、けたたましいサイレンの音に驚き、広沢の自宅から南西の空を赤く染める炎を見た。「西高か鴨江小だ、と慌てた。駆け付けた時には本校舎はまだ無事だったが、すぐに延焼し、恐ろしい勢いで燃え広がった」

 昭和二十九年七月五日、午前三時半。北校舎一階中央付近の教室から出火し、すさまじい火勢は木造校舎二棟、約二千八百平方メートルを飲み込み、焼き尽くした。

 不運が重なった。長雨の後で地盤がゆるみ、北坂で消防車が次々スリップ。東坂も創立三十周年を記念し建設中だった新講堂の資材が、進入を阻んだ。本校舎が敷地の南側一杯に建てられていたため、南からの消火活動が制限されたことも災いした。

 集まった三十台もの消防車は坂下で立ち往生し、結局消火に当たることができたのは六台のみ。近隣から在校生だけでなく卒業生らも駆け付けたが、わずかな書類を運び出しただけで、なすすべはなかった。

 生徒会長だった水野良太郎(昭30卒)は、昭和三十一年に発刊された生徒会誌「望洋」の中で「燃えさかる校舎を、ただぽかんと眺めた」とそのショックを書いた。

 夏休みは急きょ繰り上げになり、炎天下で焼け跡の片付けが始まった。各新聞は「放火の疑いが濃厚」などと報じたが、結局原因は判明しないまま。焼け残った新築中の講堂と旧講堂、柔道場、特別教室の一部などをベニヤ板で仕切り、八月十五日には隣の授業が筒抜けになる仮教室で授業を再開した。

 鉄筋コンクリート構造での校舎再建に向け、木全大考PTA会長や同窓会長の石津広司(昭4卒、旧姓太田、故人)らは、直ちに復興促進委員会を組織。伊藤新七郎校長とともに、県への陳情や、地元への働き掛けに奔走した。

 努力は実り、鉄筋三階建ての校舎の建設が決定。昭和三十年一月から総工費約四千五百万円をかけ、建設された。落成披露式を迎えた同十一月十一日、伊藤は「社会の総力でできあがった校舎。復興の感謝を、校風の高揚につなげてほしい」と喜んだ。西高は、高度成長期を新しい二代目校舎とともに歩み出す。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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