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第4章「あゆみ・発展期」

連絡船でのどかな通学
村櫛方面の生徒が通学の足として利用した村営汽船「村櫛丸」=昭和30年代
 早朝のひんやりした空気を全身で感じながら、杉田豊(昭32卒)は浜名湖へ続く水路わきの堤防を、ポンポンと音をたてて進む汽船を追いかけて全速力で走った。先回りし、木橋の上から通過する船の甲板をめがけ、ひらりと飛び降りる。「おう、おはよう」。甲板から下の客席に降りると、通学仲間から声が掛かった。

 「船頭さんも知ったもので、橋が近づくとスピードを緩めてくれた。のどかなものでした」

 村櫛村営の連絡汽船の第一便が、村櫛から弁天島へ出航するのは午前六時。次の便は二時間も後で、村から浜松方面の学校へ通う生徒たちは、この便を逃すわけにはいかなかった。藤田三男(昭31卒)も「寝坊すると自転車で追いかけ、飛び乗った。セーフ、と拍手が起こったりした」と思い起こす。

 自動車の普及とそれに伴うインフラ整備が進む昭和四十年代までは、浜名湖の中央に突き出た庄内半島は、陸の孤島。村櫛周辺から東海道線を利用するには、戦前から船を使うのが一般的だった。

 生徒らは、汽船で村櫛から小一時間揺られて弁天島へ。そこから国鉄を利用し、浜松駅からは歩いて通った。藤田は「確か一年の時にはまだSLが走っていた。ドアが手動だったので、よく飛び乗ったり飛び降りたり、スリルを楽しんだ」と振り返る。

 乗車賃の高いバスでの通学ができたのは、織布業などを営む一部の裕福な家庭の子弟のみ。村櫛方面もバスは通じていたが、経済的な理由で利用する生徒はほとんどいなかった。

 当時通学手段として最も多く使われたのは自転車で、二十キロの遠方からでもペダルを踏んだ。和地に住んでいた牧田亘弘(昭31卒)は、たっぷり一時間の道のりをものともせず、自転車通学を続けた一人。「今と違って舗装もないガタガタ道を、雨の日にはかっぱを着て走った。舘山寺くらいからなら、みんな平気で通っていた」という。

 自転車通学者が多く駐輪場が混雑するとの理由で、学校ではこのころ、半径三キロ以内の生徒には自転車通学を許可しないと決めたりした。

 バスが一般的な交通機関となった現在も、全校生徒の七割近くは自転車通学。細江町から約十七キロを、一時間かけて通う健脚もいる。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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