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第4章「あゆみ・発展期」

不況で就職「狭き門」に
火災で校舎を失ったため、高校7回生らは仮教室での授業を余儀なくされた=昭和29年
 西高をはじめ県下の普通高校の進学率が飛躍的に高まったのは、日本が高度経済成長を実現した昭和三十年代の後半から。西高も三十年代半ばまでは就職組がかなりいた。進学組と違って景気の動向に一喜一憂するのが就職組。朝鮮動乱の特需後の反転不況でたちまち「狭き門」に向き合わなければならなかったのが三十年卒の高校七回生だ。

 二十九年末には景気は回復に向かうが、静岡銀行、中部ガス、遠州鉄道など、地元企業は早々と「新規採用なし」の方針を打ち出し、就職活動は難航。学年三百二十人中、三割程度の約百人が就職を希望しているにもかかららず、十月になっても決定者が一人も出ない事態となった。

 就職担当をしていた増井利雄(故人)は西高新聞を通じて、「誰もが好むような職業にかじりついていてはだめ。知人や縁故関係を洗い、積極的に就職開拓を」と就職希望者に呼び掛けた。

 卒業までに就職先が決定したのは、希望者の五割を割る四十三人のみ。しかも半数は、知り合いのつてをたどっての縁故入社だった。

 辻村侑(昭30卒)は「卒業後も行き先が決まらず、十月になってやっと就職できた。就職口がないため、大学へ行く仲間もいたほどだった」と記憶する。

 根木勉(同)も「国鉄の試験に合格したものの、なかなかその後の連絡がない。大学にも受かっていたが入学を取りやめていたため、あわてた。臨時工員として採用されたのは、結局半年近くもたってからだった」という。

 生徒の就職口探しに教員らも奔走した。就職組の担任だった児玉二郎は「企業をあちこち回り、開拓に励んだ。卒業生がいると聞いては訪ねたりしたが、なかなか厳しかった」と振り返る。

 求人状況は翌年から好転し、昭和三十三年には九割以上、三十五年からは希望者全員の就職が決まるようになる。岩戸景気の盛りの三十六年卒組は、前年九月までに就職希望者六十人に対し、銀行、証券、製造業などから九十六件二百数十人もの求人があり、卒業を待たずに全員の就職が内定した。

 一方、三十年に全体の七割弱だった進学希望者は、年々増加。三十七年には卒業予定者三百六十五人中、進学希望者が二百九十五人と八割を超え、進学校としての色合いを強めていく。現在の進学率はほぼ百%になっている。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
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