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第4章「あゆみ・発展期」

"マンボズボン"が流行
西高新聞に掲載されたマンボズボンの流行を風刺するマンガ
 昭和三十一年に芥川賞を受賞した石原慎太郎の「太陽の季節」は、弟の裕次郎が出演した同名の映画もヒットし「太陽族」の流行語を生む。既成の価値観に反抗するような奔放な青春像に大人たちは顔をしかめたが、若者の多くは共感した。

 続く「処刑の部屋」や裕次郎主演の「狂った果実」などの一連の“太陽族映画”は、若者のファッションにも影響を及ぼし、街にはサングラスにアロハシャツ、ぴったりした細身のマンボズボン姿の若者があふれた。

 西高の生徒たちも流行に敏感だった。小倉偉利(昭34卒)は「細いズボンも売っていたが、それでは満足できない仲間は、仕立て屋で直してもらったりしていた」と思い起こす。学校側は、映画への批判なども考慮して着用を禁止。生徒会はこれに反発した。

 小倉は「まだそれほど豊かでなかった時代。親に余計な金をかけさせてはいけない、という配慮もあったと思う」と語るが、生徒らのしゃれっけの前には、締め付けも効果はなかった。

 マンボズボン最盛期に生徒会長だった山村計正(昭33卒)は「着用禁止を強要されるのはおかしいと猛反対し、それで会長に当選したようなもの。校門の前でチェックがあるので、部室に続く裏道から上がってすり抜けたりした」と攻防の一端を明かす。

 バンカラな気風もまだ残っていた。「素足に高げたをはき、学生帽に油を塗って光らせたりした。げた履きも禁止するというので、これには『雨の日には革靴では、坂で水浸しになる』と理屈をつけた」と山村。

 裕次郎ファッションの、丈の短いジップアップのダスターコートも人気を集めた。渥美高明(昭33卒)は「学校帰りに映画もよく見に行ったし、みんな裕次郎のさっそうとした雰囲気にあこがれた。コートの襟(えり)を立てて、ポケットに手を突っ込んだりしてね」と、若かりし日を懐かしむ。

 昭和二十九年に校舎が焼失して再建の課題を抱えたこともあり、このころ生徒会活動は隆盛期を迎えた。山村の前年に生徒会長を務めた大石健次(昭32卒、旧姓相曽)は、「生活上の問題も解決は生徒にまかされ、本当の意味での学生自治があった。学校も生徒会の意見は最大限尊重してくれた」と当時の自由な気風を振り返る。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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