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第6章「独創に生きる」

不運を乗り越え監督に
「取調室」の九州ロケで、スタッフと打ち合わせする鷹森立一さん=平成13年10月
 「万年助監督でもいい。職場を変わるなら辞めます」。鷹森立一(昭16静中に転校、東京都)は、きっぱりと言った。早稲田大文学部芸術専攻科を卒業し、東映東京撮影所で助監督になって八年。ちょうど監督への昇進時期に、肺結核で一年半の休職を余儀なくされる。深作欣二や降旗康男ら、後輩が次々に監督に起用され、職場へ戻ったものの、上司から「制作へ移ったらどうか」と打診された。だが、監督以外の道は考えられなかった。

 昭和三十八年、「高校三年生」の大ヒットを受けて制作が決まった舟木一夫と本間千代子主演の青春歌謡映画「君たちがいて僕がいた」で、念願の監督に昇進。梅宮辰夫主演の「夜の歌謡シリーズ」や千葉真一のアクション物などを次々手掛けた。

 昭和四十年代半ばの「夜の歌謡シリーズ」のころは、超多忙。映画だけで年間五本を撮影した。「スタッフを二班に分けて交互に休ませ、わたしと助監督、カメラマンは不眠不休で働いた」。映画全盛の時代だった。

 「キイハンター」「Gメン75」などテレビドラマ制作にも実績を残し、日本テレビ系「火曜サスペンス劇場」には欠かせない存在だ。人気シリーズ「監察医 室生亜季子」「弁護士 高林鮎子」「取調室」の大半は、鷹森の作品。

 「本当に撮りたいのは人間ドラマ」と語る通り、情感豊かな演出に、お茶の間の人気は高い。昨年は「高林鮎子」の真野あずさが主演したTBS系列の二時間ドラマで21%を超える高視聴率をマークし、局から花輪が届いた。

 「役者さんには、やりたいようにやってもらう。自然な動きが、むしろ新鮮な映像になる。自分にとっては、好きなように意見を言ってくれる役者の方が面白い」。

 現在はフリーで、年間七―八本のドラマを制作する。七十七歳を迎えた今も、仕事のペースは衰えない。「特別なことは何もしていない。ただ、若い作家の本なんかは乱読します。名前はすぐ忘れちゃうんだけれどね」

 三ケ日町生まれ。銀行マンだった父の転勤で転居が重なり、二中のころには天王町に住んだ。学校では茶摘みなど農作業に汗を流した記憶が鮮明。早稲田大文学部への進学に父は激怒し、勘当状態になったが、自分の道を貫いた。

 映画の世界に近い音楽の分野では、高橋真梨子の「桃色吐息」やチェッカーズの「ギザギザハートの子守歌」など数々のヒット作で知られる康珍化(昭47卒、千葉県)が作詞家として活躍する。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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