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二中時代、浜松を初めて襲った空襲で、弟二人と祖母を失い、高町の家を焼け出される。父、兄とともに、聖隷福祉事業団の発足の地、三方原で結核患者の療養施設を運営していた保のもとへ身を寄せた。 「施設といっても、病棟は一棟のみ。松林の中に、ぽつん、ぽつんと小さな療養小屋が並んでいた」。施設には終戦とともに行き場のない引揚者も集まり、まだ「福祉」の言葉も浸透していない時代、福祉の必要性を痛感する。昭和二十三年、県の奨学金を受け、国が東京・原宿に新設した社会福祉専門学校(現社会事業大)に進んだ。 「福祉は黎明期。問題意識に目覚めた社会人が集まっていた。身よりのない子供たちと靴磨きをしていた人が、状況の改善を求めて勉強に来ていたり。現実の問題に教えられる機会も多かった」 休みになると、保が県と協力して弁天島に開設した母子寮で、仕事を手伝う。戦争で夫を失った母親が働く間、百五十人を超える子供たちと苦楽を共にした。 卒業後は母子寮を経て、本格的な結核病院となっていた聖隷三方原病院へ。財務や給食部門を担当した後、経営を学ぶ。「当時は入院患者が百七十―八十人、入院待機者が二百人もいた」。結核が直る病気になり待機が解消されると、住吉の総合病院の建設に携わり、事務長として、心臓外科や脳外科など新しい診療科を積極的に開いた。 昭和五十五年からは事業団理事長。ガン患者の理想的な終末治療を目的に、三方原病院に開設したホスピス病棟は、全国初の試みとして注目された。事業団は在任中に、一都七県に百以上の医療、福祉施設を展開するまでに成長した。 介護保険の導入などで、医療と福祉の連携の必要性が叫ばれるが、「本来、根は一つ」という。「聖隷の歴史がそう。医療が福祉を生み、福祉が医療を生みだしてきた。困難な状況にあるひとりの人間に何が必要であるかという視点に立てば、分けて考えられる問題ではないはず」。 二十年務めた理事長職を、一昨年辞す。先ごろ二十年前の文章を見て、「今と同じことを言っているのにがく然とした。世代交代は大事です」。
(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)
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