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第7章「道を究める」

「やり直し人生」花開く
 千葉県市原市。京葉コンビナート地帯を車で走ると、約二・五キロにわたり、石油精製装置が立ち並ぶ出光興産千葉製油所の敷地が続く。日産二十二万バレル、世界有数の精製能力を誇る製油所は、出光興産の国内二番目の工場として、昭和三十八年に完成した。

 出光興産顧問の藤田三男(昭31卒、市原市)は、建設のための技術者として、入社二年目で初めてこの地を踏んだ。周囲を案内しながら「砂浜が広がるだけで、本当に何もなかったんですよ」と感慨深げに語った。

 東北大学工学部応用化学科を卒業し、昭和三十六年に出光興産に入社。公害・地震対策や、重油の分解触媒開発など精製技術からバイオマス(生物体のエネルギー利用)まで、広範な研究開発に従事した。平成三年からは出光興産取締役を務め、グループ企業の沖縄石油社長に。出光石油化学常務取締役などを経て、現職。

 村櫛に生まれ、中学卒業後、親類が営む入野の織り屋で三年間働いた。朝鮮特需のころで連日の残業生活が続く。「学がなくては独立できない」と思い直して一念発起。三カ月の猛勉強の末、西高に合格した。十八歳、「やり直し人生」のスタートだった。

 「運転免許もあったし、酒もたばこもやってた。入学前にやめたけどね。おっさんみたいなやつが来た、と思われただろう」。すぐに「おとっさ」「おやじ」のあだ名が付き、何かと頼られる存在になった。

 理数は得意だったが、苦労したのは英語。中学では就職組で基礎知識がなく、試験は教科書を丸暗記して乗り越えた。必死で理解しようと授業では質問を連発、前の席が「指定席」になった。「それが英語で研究論文を書いたり、外国の技術者を相手に仕事をするようになるんだから、分からんもんです」。

 二年の半ばには、校舎の火事に遭遇。「四人の先生の授業が同時に聞けた」という講堂をベニヤで仕切った仮教室も懐かしい思い出だ。

 自ら選び、自ら切り開いてきた人生。「大事なのは的確な情報をつかんで、変化に対応すること。一度決めたら果敢に挑戦すること」。趣味のテニス歴四十年。千葉オープンで八位になったことも。

 元警察庁長官で現スイス大使の国松孝次(昭31卒、スイス)は、同じクラスで机を並べて以来の親友。「彼はまじめで緻(ち)密。『おまえは楽天的で幸せだ』と言われますね」。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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