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ごう音とともに吹き飛ばされ、気を失った。目を覚ますと、真っ黒な煙が立ち込め、近くの柱の下で談笑していた仲間が動かなくなっていた。 髪の毛が逆立ち、皮膚がはがれるほどのやけどを負い、真っ黒になった性別も年齢も分からない人、人、人―。松のこずえまでが火柱を上げる中を、倒れる人の間をぬって、転がるように川へ逃れた。 二週間ほどすると、ひどい貧血になり、倦怠感に襲われた。人の顔を忘れるようになった。髪が抜け、歯ぐきから大量に出血した。亜急性原爆症と診断されるが、三カ月の入院でほぼ回復する。爆心地から一・二キロでの被爆。命があるのが不思議だった。 帰郷して数学の教師になり、昭和二十四年からは母校西高の教壇に立つ。昭和二十九年、焼津の漁船第五福竜丸が被ばくした米国のビキニ環礁での水爆実験をきっかけに、少しずつあの日の広島の様子を語るようになった。「同じことが繰り返されるのには耐えられない」と思ったからだ。原爆をもじり、「バクさん」のあだ名が付いた。 「結婚して、娘も生まれ、生きることに自信を得たせいもあったかもしれない。妻がわたしの被爆を気にかけなかったのにも救われた」 昭和三十二年から、原水爆禁止世界大会に高教組の代表として参加。県原水協の協力を得て、県内で初めて被爆者の実態調査を行い、昭和三十四年には県原水爆被害者の会を設立、会長に就任する。 願いは核兵器の廃絶と被爆者援護法の制定。国会や国連への要請行動、署名、講演、展示会など、国内外で粘り強い運動を四十年以上続けてきた。「被爆者援護法」は平成六年に制定され、生存被爆者にある程度の手当が認められたが、「死者への補償がなく、真の援護法とはいえない」と批判する。「国家補償にこだわるのは、それが国の戦争への考えを問いただす意味を持つから」という。 現在の会員は、県内で千人いると言われる被爆者のうち、約半数の五百人。高齢化が進む。杉山も今年、七十九歳になった。「被爆の瞬間に、わたしの運命は決まったようなもの。生きている限り、できるだけのことをしたい」。
(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)
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