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第7章「道を究める」

巨人の中畑らを育てる
多くのプロ野球選手を育ててきた太田さん。「野球は教育」の姿勢を貫き通す=東京都世田谷区の駒沢大祖師谷グラウンド
 「こんにちは、監督」。駒沢大野球部の拠点、東京・世田谷の祖師谷グラウンド。太田誠(昭30卒、東京都)がグラウンドに続く道を歩くと、犬を連れた主婦から声が掛かる。周囲にはごみ一つなく、マネジャーらが丹精した花が咲きそろう。「野球は教育。夢や愛情を伝え、生き方を教えること」。礼節や規律を重んじる“太田流”指導は、周辺を歩いただけでもよく分かる。

 巨人の中畑(現解説者)、河原、高橋尚、オリックス監督の石毛、広島の新井。監督に就任して三十二年、太田はここから、プロ野球界の寵児を含む四百人以上の教え子を送り出してきた。

 東都リーグ優勝二十四回、大学日本一が五回。日米大学野球の全日本監督も歴任し、昭和五十八年には念願の優勝に導く。シドニー五輪では強化本部長も務めた。

 昭和五十三年の春、一度だけ最下位に落ち、二部リーグとの入れ替え戦を経験した。日大を相手に総力戦となった延長十回。ピッチャーがいなくなった。「ショートで主将だった石毛が自分がやるしかない、と投球練習を始めて。出すと、いきなりストレートの四球。それでもけん制球で落ち着き、あとはぴしゃっと押さえた」。

 名選手たちとの思い出は尽きないが、「病気をしたりして、追い詰められているはずの無名の選手が、奇跡的な力でピンチを救ってくれたことも心に残る」という。

 駒沢大時代は一年秋にデビュー。二度首位打者に。卒業後は電電東京(現NTT東日本)に入社し、都市対抗で活躍した。東京・日本ビールに補強された三十七年の大会では、大阪・電電近畿との延長二十二回、五時間余の大接戦にサヨナラ本塁打で決着をつけた。

 実家は浜松市福塚町の農家。幼少から、馬込川を舟で下ってむしろの原料となる太藺(ふとい)を浜へ運び、乾かすのを手伝った。豊かでなく、高校で野球を続けることを迷うが、教諭で部長だった寺田昇(故人)が父を説得してくれ、夢がかなった。三年夏の地区大会準々決勝では、その年甲子園で準優勝した静商に敗退。悔しさが、野球を続けるばねになった。

 監督就任二年目にグラウンドに植えた樫(かし)の苗が、今では大人の一抱えほどに育つ。こずえを見上げ、「ここまで野球に没頭できたのは妻のおかげ」と、地元浜松で両親とともに家を支えてくれた愛妻への感謝を口にした。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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