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二中の後輩だった古橋広之進(昭20卒、東京都)が全米選手権を制覇し、日本を沸かせたころ。宗一郎が、入社して間もない技術者河島喜好(昭19修、東京都)に言った。「若い遠州人が日本を勇気づけている。あいつがやるなら、おれはもっとすごいことをやる」。二輪レースの最高峰、英・マン島レースへの参戦宣言だった。 河島が、浜松工業専門学校(現静大工学部)を卒業し、入社したのは昭和二十二年。「世界のホンダ」はまだ、社員十二、三人の町工場だったが、独特のエンジン音を立て、焼け野原となった市街を駆け抜ける“ポンポンバイク”は、河島の目に威勢よく映った。 初の大卒社員だった河島は、入社直後からエンジン開発を担当。レースでは全体の技術と運営、監督の三役を任され、ホンダ・レーシングチームの立役者となる。世界グランプリも次々制覇。「ホンダは挑戦したレースを三年以内に制す」と言われ、そのたびに二輪車の輸出を伸ばした。 三十四歳で取締役になり、常務、専務を経て四十五歳で社長に。他メーカーに先駆けて米国での現地生産を決断し、国内後発の四輪に販路を開いた。五十五歳を迎えると、宗一郎や宗一郎を支えた藤沢武夫(元副社長)と同様、鮮やかに退いた。「あれほどの業績を残した二人がすぱっとやめ、縁もゆかりもないわたしに思う存分やらせてくれたのですから」 技術者らしく、いつでも目前の課題と真剣に向き合ってきた。「夢の実現、と簡単に言いますが、そんなものじゃない。がむしゃらにやってきたら、いつの間にか結果が出た、というのが本当です」 趣味の釣りやボート、狩猟は、若いころから。幼少から親しんだ天竜川では、今でもアユ釣りを楽しむ。「毎年、何度も行く。一シーズンに五百―六百匹は釣ります」 日本楽器(現ヤマハ)社長、ダイエー副会長を務めた河島博(昭23卒、東京都)は実弟。二輪生産ではライバルとなり、マスコミに騒がれた。「公私のけじめ」と弟に関する取材は一切受け付けなかったが、この日は特別。「弟は二中では二学年下でしたが、わたしより体格も良く、優秀。ずっと級長を任されていましたね」
(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)
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