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第9章「部活動の軌跡」

30年代は西部の"雄"に
昭和38年のインターハイで団体全国6位に食い込んだ体操部
▼体操部

 現在は活動していないが、かつて盛んだった部活動に体操がある。昭和三十―四十年代には静岡市立高、沼津商業高などと競い合いながら、例年インターハイや国体に選手を送り込み、西部の雄として名をはせた。

 創部は昭和三十年ごろ。大学時代に体操を経験した体育教師の村上清が呼び掛け、選手集めや練習場の整備に尽力した。「自分で吊り輪を買ってきて、天井に上って取り付けたりした」と苦労を語る。

 浜西体操部の躍進に一役買ったのが、河合楽器体操部。昭和四十一年に世界選手権個人二位に食い込んだ鶴見修治ら一流選手が西高を練習場に使い、刺激を与えた。鶴見と親交のあったオリンピック団体総合三連覇の金メダリスト遠藤幸雄が出入りしたことも。器具類の寄付もあり、環境は充実した。

 昭和三十四年、小粥重義(昭35年、上島)がインターハイに個人で初出場。翌三十五年には、鈴木晨弘(昭36卒、入野)が初の国体出場を果たし、存在感を示した。二人は指導者となり、小粥は浜松日体高、鈴木は浜松開誠館高で力を尽くす。

 昭和三十六年には、初めて団体戦でインターハイへ。当時体操が盛んだった東部中出身の堀勇(昭37卒、富士市)はじめ、吉田糺(昭37卒、名古屋市)、花井偉夫(昭37卒、東京都)、鈴木旭(昭38卒、豊田町)ら中学時代からの経験者が、五位入賞と大健闘する。堀は「周りを見渡しても、うまいと思う選手は見当たらなかった」とこの時の印象を語る。

 続いて台頭したのが、青島昶(昭39卒、元浜)、佐藤健一(昭39卒、遠州浜)、黒柳健治(昭39卒、旧姓朝倉、三ケ日町)、松木幹治(昭39卒、千葉県)ら。四人は昭和三十八年のインターハイ団体戦で六位、中でも青島は前年の個人戦に続く二度目の出場で種目別鉄棒五位の好成績を残す。青島、佐藤、黒柳は県代表選手として国体にも参加し、高校の部で四位、体操の総合優勝に貢献するなど、浜西体操部の黄金期を築いた。

 その後は村木啓造(昭49卒、三方原)らが活躍。昭和四十八年には九年ぶりのインターハイ団体戦出場を果たすが、徐々に選手が集まりにくくなり、昭和五十八年に休部となった。村木は現在、県体操協会理事長。インターハイ県予選六連覇中の常勝校、浜松城北工業高を率い、県体操界の重鎮として知られる。

(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)

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