![]() | <95> |
二中時代の昭和六年に完成した柔道場は「自彊館」と呼ばれた。「自ら修養鍛錬を怠らない」ことを意味する中国の古典・易経の「天行健君子以自彊不息」に由来がある。現在の練習場に掲げられている額には、溝口紀子(平2卒、静岡市)が在籍した当時の監督、飯田稔の手になる力強い墨文字が躍る。 柔道部顧問だった宮崎貞夫=現湖西高教諭=は、「決して自分のやり方を押し付けず、いい方向に誘導しながら、最後は本人の意志にまかせた」と飯田の指導を思い起こす。 溝口が西高を志したのも、そんな飯田に魅力を感じたからだった。その溝口も、中学から全国で活躍し、入学当初からオリンピックを視野に入れていただけに、「ゆったりした雰囲気の西高で良かったのか、と悩んだ時期もあった」と告白する。 早朝マラソン、男子の強豪校での自主練習と自分なりのやり方で実力をつけ、一年冬の福岡国際女子柔道選手権三位を突破口に、国内外の大会を次々に制覇した。 バルセロナ五輪銀メダルで日本を沸かせた「世界の溝口」。繰り出す多彩な技は、選手の養成を第一の目的としない、自由な空気の中で花開いた。 柔道部が全国へ進出したのは、内藤克己=現城北工業高教諭=が監督を務めた昭和四十年代から。団体戦では、地元の浜商などに苦戦する時期が続くが、前OB会長の水野進(昭44卒、湖西市)が昭和四十三年に国体、インターハイにダブル出場したのを皮切りに、永田明史(昭45卒、細江町)も翌年インターハイへ。 飯田監督時代になると、高校から柔道を始めた石原豊(昭52卒、細江町)が、持ち前の馬力でインターハイ選手に成長。現OB会長の白井康二(昭52卒、新居町)は国体に県代表として出場、ベスト8の成績を残した。 白井の後には斎藤憲次(昭53卒、住吉)が続き、インターハイ、国体で活躍。この年は、斎藤、河合孝泰(昭53卒、坪井)らが県柔道祭団体で優勝、県大会を初制覇した。 男子柔道が再び沸いたのは飯田の後を受けたOB監督清水虔(昭36卒、磐田市)時代の平成九年。実力がありながらけがに泣いてきた本田洋一郎(平10卒、浜北市)が、万全の体調で最後のチャンスのインターハイ県予選に臨み、勝利をつかむ。一本勝ちで勝ち進んだ準決勝で、優勝候補の本命だった東海大一高の二俣康明を裏返しに投げ飛ばしたシーンは、記憶に新しい。
(文中敬称略、題字は古橋広之進さん=昭和20年卒=)
(火―木曜日に掲載します)
|
浜松市立高百年 掛中・掛西百年史 榛原高校百年 引佐高の百年 |
沼津東高百年 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 田方農高の百年 静岡新聞へ |