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「野球部を作りたいんです!」―。
校長室に響く若者の声。大正十三年、二年生の浅野敏樹(故人・大15卒)は一大決心して、校長中島東一に野球部創設を懇願した。当時、野球はマイナー競技、しかも中島は野球嫌い。浅野は、彼の熱意に早くから賛同していた教師西沢勘助の後押しとその後十数回にも及ぶ直談判で、部創設の許可をもらったといわれている。浜商野球部の誕生。学校創立から二十五年後の出来事だった。
部は設立したが、今度は部員不足に悩まされた。浅野の同期では河合吉一、永田三郎、日向逸平(いずれも故人)。後輩の坂本鶴次(故人・昭3卒)は後に部誌「闘魂」で「正規の部員は七人くらい。あとは野球のできる生徒に頼んで試合をした」と寄せている。
昭和初期の野球部メンバー(同部部誌「闘魂」より)
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記念すべき第一戦は大正十三年、夏の神静大会(当時は県予選なし)。やはり前日までメンバーがそろわない。ようやく集めて臨んだが、相手の神奈川商工実習校打線が打つわ打つわの猛攻撃。20点余りを取られて途中で中止を申し込んだ。結局、記録上は「棄権」。その後も県内においてもまだまだ弱小の域を出ず、白井信雄(昭6卒)は「小学校の野球経験者を集めていた浜松一中(現・浜松北高)には足元にも及ばなかった。いつか0―3で負けたが、それが一番の小差」と記憶している。
環境づくりにも一苦労。当時の校舎は現在の浜松測候所(浜松市三組町)に位置し、校庭は秋葉神社の森を切り開いた。四方およそ五十メートルのグラウンドは、ちょっとした当たりが“場外ホームラン”に。石ころもそこら中に転がり、整備しても雨が降れば再び凹凸ができた。
当時を知る数少ない一人となった白井は「全校生徒八百人に頼み、石を拾ってもらった」。部としての基礎を築くためにあらゆる面で奔走した彼らの奮闘ぶりが伺える。
ただ、がむしゃらに白球を追う若者の姿は今も昔も変わらない。「甲子園なんて夢の夢だったが、日が暮れるまで、ただ投げ打ち走り、汗を流した。青春だったよ」
(文中敬称略)
(水曜日に掲載。題字は沼倉昇校長)
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