(2004年4月28日掲載)
 夏の甲子園初出場 (昭和25年)
名をはせた大逆転劇

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 「全員野球の浜商」「逆転の浜商」「粘りの浜商」―。

 浜商野球部は昭和二十年代から、こんな言葉で飾られる。結束が固く、最後の最後まで試合を捨てない戦いぶりをOBやファンが親しみを込めてそう呼んだ。

 昭和二十五年夏、浜商は春夏通じて初の甲子園を経験した。スター選手はいなかったが、県予選で浜松北、静岡商など並み居る強豪を破って初制覇。浜松の学校で初の快挙に、新聞には「県優勝旗、天竜川を渡る」の文字が躍った。続く山静大会で再び静岡商を退け、甲子園への道を開いた。

 就任間もない監督の松本平四郎の指導は厳しくはなかったが、捕手北村八(わかつ)(昭26卒)は「主将の鈴木達夫(故人・同)を中心に、チームワーク重視で鍛えられた」と振り返る。

甲子園出場を決め、ナインは市内をパレード(部誌「闘魂」より)
 迎えた晴れの舞台。初戦の別府一高(大分)戦は一年生エースで、県予選のけん引役・吉原勉(昭28卒)が二回に9点を献上してノックアウト。ところが終盤、打線が3点ずつ返して最終回に4点。大逆転劇による初出場初勝利で全国を驚かせた。

 若狭(福井)と相対した二回戦は1点を追う展開に。浜商はこれまた九回に反撃、試合を振り出しに戻した。以降連なる「0」。十四回表、とうとう突き放されて涙をのんだが「前評判の高くないチームが甲子園まで行って一勝して。応援の人たちの方が満足してくれた」(北村)。

 時折しも、朝鮮戦争がぼっ発。夜行列車で降りた大阪には軍人の姿があふれていた。「また戦争か」。牧田は柳沢彰(故人・昭26卒)や横田敏雄(故人・同)と頭をくっつけ合ってささやいた。

 当時、誰もが感じていた不安。焼け野原に点在する質素なバラック小屋は戦争の傷跡を象徴していたが、終戦から五年がたち、貧しくもようやく生活らしい生活を営み始めた矢先だった。

 ドラマチックな野球の連続に人々は沸いた。「みんな浜商野球に自分たちの希望を重ね合わせた。『全員』『逆転』『粘り』。浜商野球を形容する言葉って、時代が生んだのかもしれないね」(牧田)。

(文中敬称略)

(水曜日に掲載。題字は沼倉昇校長)