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「あっ」
昭和四十二年夏、甲子園の組み合わせ抽選。ステージに上がってくじを引いた主将榊原良行(昭43卒)は思わずそうつぶやいた。
昭和39年に甲子園出場を決めた野球部
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組み合わせの大型掲示板に掛けられた「浜松商」の看板の隣には「土佐」(高知)の文字。同三十九年の選抜甲子園初戦と全く同じカードが決まった瞬間だった。
客席から抽選の様子を見守っていたナインもすぐにピンときた。主力の榊原ら三年生は三十九年の選抜の時点で中学新三年生。既に進学を浜商に絞っていた人間は何人もいたし、甲子園でプレーする先輩たちの姿にあらためてその思いを強くした。だから忘れるわけがない。そして奮い立った。「雪辱だ」―。
昭和42年のナイン
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三年前、浜商は延長の末に敗れていた。試合は長時間に及び、ナインは初めて経験するナイターの中で十回、満塁からとうとう突き放された。
土佐は名将篭尾良雄(故人)が率いた名門で、その三十九年春はベスト4、四十一年春には準優勝。ひたむきなプレースタイルから「全力疾走の」の形容が付き、全国にファンがいた。
だから、この不思議な巡り合わせに一番、胸に期するものがあったのは監督の根木康治だったかもしれない。組み合わせが決まったときナインはまず根木の顔を振り返ったが、マネジャーの田中正信(同)は「監督は笑っていた」と記憶している。一瞬、苦笑いにも見えたが「借りは返す」という笑みだったんだと、今は思う。
試合は投手戦で八回を終わって2―1。いよいよ雪辱なるかとスタンドは沸き立った。しかし主戦吉田茂(同)が背中を痛め、無念の途中降板に。あとを継いだ加藤三千男(同)は九回に追い付かれ、十一回表、一挙四点を献上してついに夢断たれた。思い起こせば、三年前も延長で取られたのは四点だった。
「なんという因縁か」
当時、選手も甲子園の行き帰りは電車だった。浜松への帰途、選手たちは応援の生徒たちと同じ車両になった。
「よくやった」。みんなの声が胸に染み、かえって顔を合わせられなかった。負けん気が強く、人前で弱みを見せたことのない加藤は深く帽子をかぶったがこらえ切れず、肩を震わせて涙した。
(文中敬称略)
(水曜日に掲載。題字は沼倉昇校長)
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