(2004年7月7日掲載)
 6度目の春の甲子園 (昭和61年)
上村野球、常勝PLに雪辱

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 PLに雪辱を果たしたナイン
 何という運命のいたずらだろう。

 昭和六十年春、最強PLの前に大敗を喫した浜商は翌春、甲子園史上初となる二年連続初戦同一カードとして再びPLと対戦することになる。そして見事に雪辱を果たしたのだった。

 “絆(きずな)”―。浜商を勝利に導いたのは、時に寝食を共にし厳しい練習に耐え抜いた末の到底他人には分かり得ない、ナインと指揮官との結束だった。

 浜商攻撃の二回表、先頭の飯田敦史(昭63卒)が出塁、打席には大庭恵(昭62卒)。浜商野球の定石ならバントだ。ましてや監督は上村敏正。高校野球を知り尽くした指揮官が冒険するとは思えない。ところが―。

 大庭は打った。左翼線二塁打。浜商はこれを契機に宮田尚樹(同)が先制適時打、三回にも追加点を挙げて4点差を付けた。

 「どうしてかね。ただ、大庭は一番信頼できるバッターだった」上村は記憶を手繰り寄せる風でもなく当時を振り返る。

 この日、スタンドでテレビ中継のゲスト解説で座っていた副部長の山本得三も、図らずも実況アナウンサーの問い掛けに「ここは打たせるでしょう」と答えていた。「根拠はありませんが、そんな気がするんです」

 中盤以降は主戦大庭が毎回走者を背にする苦しい展開だった。六回には1点返された。なおもピンチは続く。ベンチの上村も胃が痛い。よし、ここで何かアクションを起こそう。とその時、伝令役の鈴木彰宏(同)が寄ってきた。「監督、タイムを取ってマウンドに行ってきます」。

 上村は体中がしびれる感覚だった。「自分の直感と子供たちのそれとが共通している」。同時にそれは「チームが高い次元で完成を迎えた」と確信できた瞬間でもあった。浜商は八回にダメ押しの4点を入れ、とうとうPLナインの前で念願の校歌を響かせた。

 あの年、大庭や寺田健記(同)はたぐいまれなセンスに加え、全国クラスの選手たちでさえ「まだやるか」とうわさするほど練習を積んだ。“共通する直感”と言い換えられる浜商野球部の絆は、そうした努力の上に生まれた結晶だった。

(文中敬称略)

(水曜日に掲載。題字は沼倉昇校長)