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ハウスの中は暖まった空気のにおいがした。十一月末、生徒たちは夏から育ててきたマスクメロンの収穫のため、五本ある自分の木の前にひざまずいた。「おれの、形がいいだろ」「大きいだろ」。つるにはさみを入れながら互いの“作品”を批評する。土をつくり、苗を植え、肥料をまいて除草し、摘果し、ようやく実った一つを手にする時、いつもよりおしゃべりの多くなる生徒を農業担当の教諭はたしなめなかった。この日の授業は“収穫祭”。多少の笑い声は大目に見てもらえる。 メロン収穫の五日後、生徒たちは学校工場内で亜鉛合金のネームプレートをフライス盤にかけていた。慎重に高さを測ってプレートを固定し、ざらざらした面を機械でぴかぴかに磨いていく。細かい金属のくずが周りに飛び散る間中、工場内は静まり返っていた。メロンを手に笑い声を上げた同じ生徒が、ここでは無言で金属加工に没頭する。小さなミスが大事故を招く工業現場の厳しさを教えるために、工業担当の教諭らは徹底した静寂と集中を生徒たちに要求していた。 ◆商工業も学習 今年創立百周年を迎える県立引佐高校では、一年生は普通科目のほかに産業基礎の授業を受け、農業、工業、商業の三分野を体験的に学習する。全員がメロン、トマトの栽培からバイオテクノロジー、金属加工、ワープロの実習まで幅広く体験し、自分に一番合う分野を見定める。そして、二年生で(1)生物工学(2)生産流通(3)産業教養(4)電子機械(5)機械―の五コースに分かれ、より専門的な学習に入っていく。この教育課程は「産業技術科」と呼ばれている。 全国初の産業技術科として知られる。しかし、その百年の歴史のほとんどは農業学校としての色合いが強い。明治三十五年(一九〇二年)に引佐地域の五町村学校組合立引佐農業学校の名で誕生してから、戦後の学制改革を経て、昭和三十八年(一九六三年)に県立引佐高校と改称するまで、同校は六十年以上も日本の主産業だった農業の担い手育成に尽くしてきた。 しかし、高度成長時代に社会は工業部門に特化した人材を求めるようになり、同校はそのニーズにこたえる形で機械科を設置、学校名から「農業」の文字を消した。その後にきた学歴偏重社会では普通科志向が強まり、今度は農業、工業を問わず職業教育そのものに対する軽視が始まった。産業技術科はそういう社会の移り変わりの中で、専門性に力点を置いた同校の教育を貫き通すための「器」として登場してくる。 ◆進路さまざま 卒業生の進路はさまざまだ。大学や専門学校へ進学したり、製造、建設、営業関係の会社に就職したり、公務員になったり。農業を継ぐ者もいる。平成三年卒業の河合義徳(28)=88回、三ケ日町日比沢=も、同科で農、工、商の各分野を学んだ上で、「小さいころから育った自分の家のミカン畑」を仕事場にした。 河合は農業部門の生物工学コースを選び、卒業後、半官半民の財団職員を経て、四年前に父親が切り盛りするミカン畑の労働力となった。「小さいころから自然と(畑を)継ぐもんだと思ってきた。そして、その通りになった」。高校三年間はその自分の人生選択の途中に位置し、さまざまな職業の可能性を提示してくれた。だから、「学校でいろんな職業を見定めて、結局畑に帰ってきたな、という実感がある」。
学舎(まなびや)は急な坂を登った真正面にある。そこでたくさんの生徒がさまざまな職業の切り口を見て、自分の道を選んでいった。同校が農業学校から農工併設校となり、産業技術科へと昇華し、現在に至る―この百年の歴史を振り返るとともに卒業生を紹介する。
(文中敬称略)
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掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 |