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国勢調査などによると、当時、遠州地方では稲作のほかに養蚕、茶、畳表の生産が盛んだった。農家の子弟に主要産業のノウハウを伝授する使命を担った同校は、貧しさの中でいろんな工夫をした。蚕室がないから、ある年は教室の片隅、またある年は応接室や物置の一隅で蚕を飼った。製茶の実習をしようにも製茶場がないため、小使室の庇(ひさし)の下に二筒の焙炉(ほいろ)を作って少しずつ行った―というように。 生徒数も少なかった。創立時は定員百八十人のところに、一、二年を合わせてようやく六十四人だった。明治三十七―三十九年に同校の助教諭をしていた故内山豊作は、「そのころはまだ、生徒の父兄にも一般社会にも農業教育の必要を理解するものが極めて少なかったから、学校当局はあらゆる会合に出席し、生徒の入学勧誘に大いに努力した」と書いている。 当時、同校に学んだ生徒たちは既に亡い。しかし、明治末期から大正初期の卒業生が昭和五十五年に集った「母校を語る会」の記録を見ると、のどかな農村生活の中で新しい農業手法を学び取ろうとした進取の気風、厳しく教え込まれた報徳の精神などがにじんでいる。「ものはないが意欲に燃え、心は豊かだったころ」。そういう時代に生徒たちは縞(しま)の着物を着てげたをはき、弁当箱の入ったふろしき包みを斜めに背負って、今と同じ学校への坂道を上って行った。 創立五周年を過ぎたころから、同校には少しずつ農業実習に必要な諸設備が整備されていく。明治四十二年には養蚕室と製茶工場ができ、四十三年には三岳演習林、四十四年には稲荷山果樹園が完成した。十周年までには一通りの設備がそろったが、続く十年間に日本は戦争への色合いを急速に強めていく。創業期は学ぶことだけ考えることを許された、貧しくぜいたくな十年間だったという。
(文中敬称略)
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掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 |