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夜の養蚕室はザーザーと雨降りのような音がしていた。においは生臭いような青臭いような、生きもの特有のにおいだった。明治期から昭和初期にかけて国策として推奨された養蚕業に関して、引佐農業学校では生徒が交代で養蚕室に泊まり込む実習を行っていた。雨音みたいなのは、「お蚕さまが桑をはむ時の音」という。昭和十年代後半に同校に通った野沢豊(70)=44回、細江町中川=も実習の経験者。野沢は一昨年、長野県から蚕を取り寄せ、約五十年ぶりに飼ってみた。
しかし、養蚕業の衰退は急激に訪れる。手の掛かる絹はナイロンの出現によって廃れ、日本中の農家が養蚕から手を引いた。現在の引佐高を訪ねると、かつての養蚕室など既になく、野沢は養蚕が日本の一大産業だったことすら「夢みたいだ」と言う。夢みたいだから、もう一度二十匹の蚕を飼ってみた。二十匹が卵を産み、二百匹になった。その繭を前にしてようやく、野沢は「高校生の時かいだにおい」を思い出した。 かつては盛んだったのに廃れてしまった産業がもう一つある。イ草の一種「七島藺(しちとうい)」「琉球藺(りゅうきゅうい)」を栽培し、三角形の茎を二つに割って乾燥させ、畳表を織る。昭和二十年代まで中川地区は畳表の一大産地だった。学校の記念誌にも生徒らが琉球藺を運ぶ写真が残っている。しかし、今では唯一、星野秀雄(60)=56回、細江町中川=が栽培を続けるだけになった。 もう一人、内山光男(77)=38回、細江町気賀=も毎年、イ草の鉢植えを六鉢だけ育て、町役場などに届けている。「自分は兵隊になって親に孝行もせず、世間に貢献することもなかったから、せめて昔の産業をつなぐ役目くらい負いたい」という。内山はいつかは絶えてしまう産業を保存するためにだけ、鉢植えを作り続けている。 野沢も内山も高校で習ったことなど忘れた―と笑う。でも、一方は繭、一方は鉢植えの中に、自分たちの高校時代の一部を無意識に残している。
(文中敬称略)
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掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 |