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1章 校史戦前編(5)

荒れ地の三方原を開墾


斉藤らが開墾した三方原農場は今では機械化農場になっている。写真は昭和20年代から30年代にかけて茶園だったころ=浜松市根洗町から細江町中川にかけて

 昭和六年に満州事変が勃発したころから、時代は急速に軍事色を濃くしていった。県立引佐農学校でも少しずつ普通の授業が減り、鉄砲を担いで行進する軍事教練や、朝から晩まで農作業に駆り出される終日実習の時間が増えていく。そういう時代に学校に通った生徒たちは、文字通り「汗まみれの青春時代」を送った。中でも、昭和十年二月からの三方原開墾を経験した生徒たちは、汗だく、泥だらけになってくわを担ぎ、「はうようにして家に帰った」高校時代の一シーンをよく覚えている。

 三方原開墾は戦時下での食料増産の必要性が叫ばれ始めたころ、猫の額ほどの学校実習場では足りない―と考えた当時の多田実校長=故人=が急きょ打ち出した。後に社会党の衆院議員となる斉藤正男(82)=33回、浜松市広沢三丁目=はちょうどそのころ同校の二年生で、いやも応もなく開墾の主力として二ヘクタールの大地と格闘することになった。

 開墾作業が本格化した初夏のころ、大地には新芽を付けた小松が根を張り、生い茂る茅(ちがや)が「つんばな」という白い穂を風に揺らしていた。その小松を切り倒し、根を掘り起こし、茅を刈った。週に二、三度の開墾実習のたび、斉藤は「果てしない作業だ」と思ったという。

 開墾地の土は酸性で農業には適さない。そこでダストいう植物性の肥料を運び込んで中和し、ようやく畑の格好に整えた。最初に植えたのはブドウ。細江町の篤農家がデラウェアの成木をくれるというので、生徒たちは細江町でこいだブドウの木を一株ずつ自転車に乗せ、片手運転で三方原まで運び、自分たちの開墾地に穴を掘って植えた。

 「その時の担任が、日が西に傾いてきても『終わろう』とは言わなかったんだよ」。生徒たちは疲れ果てて座り込み、一日でブドウを植え終えるなんて無理だ―と口々に訴えた。それでも担任教諭は許さない。「今日の作業が終わらなきゃやめない、の一点張りだった」。晩秋のある一日、生徒たちはストライキを起こす一歩手前で踏みとどまり、死ぬ気で二ヘクタールの畑にブドウの木の列を作った。  翌十一年夏、高校を卒業し師範学校の生徒となっていた斉藤は、休みの日に開墾地を見に行った。そこには「房は小さいが、たくさんの実がちゃんと赤らみかかっていた」。涙が出そうになり、「勉強は好きじゃないが働くのは好きだ」と、その時の斉藤は強く思ったという。今も変わらないその気持ちが、「高校からもらった一番大きな財産だな」。

(文中敬称略)
 

掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年  御殿場高 躍進の百年

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