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1章 校史戦前編(6)

満州、北海道で勤労奉仕


鈴木も参加した満州での勤労奉仕。見渡す限りの開墾地に小麦をまいていく=昭和16年ごろ、満州・サルト

 「四月の満州は一面氷に閉ざされていた。着いてすぐ故郷の都田が恋しくなった」。日本がいよいよ太平洋戦争に突入する前夜の昭和十六年春、引佐農学校の生徒十人は興亜学生勤労報国隊に参加して満州・サルトへ旅立った。この勤労奉仕は翌年も続き、昭和十八、十九年には北海道勤労奉仕を行う。農業学校の生徒として、戦争で働き手のなくなった農家を手助けする。生徒たちは国のために―という一途な思いで故郷を離れ、約三カ月間の勤労奉仕に身を投じた。

 最初に満州に降り立った学生の中に鈴木正義(76)=39回、浜松市都田町=はいた。関東、中部地区の農学校十二校から総勢二百人が集まった満州建設の農業学校隊。鈴木はその第四小隊分隊長として、来る日も来る日も千二百ヘクタールの広大な大地を開墾した。トウモロコシやコーリャンの旧株を除去し、掘り返した後にバレイショを植える。見渡す限りの大地に一列に並び、石油かんに入った小麦をまきながら、地平線に向かってひたすら歩き続けることもあった。

 すべて過酷な仕事だったはずだが、今思うとそれほどでもない。思い出そうとすると、黄砂舞うはるかな大地がまぶたに浮かんでくるだけだ。ただ、「その苦しいところを耐えてきた自信が後の自分を支えたのは確か」と鈴木は振り返る。

 北海道勤労奉仕には昭和十八年に二、三年生の希望者三十人が、翌十九年には二年生全員が参加した。永田完(74)=41回、引佐町横尾=、野末菊夫(72)=43回、細江町三和=も北海道で種まきや除草を手伝ったのをよく覚えている。サトウダイコンやハッカ、豆、ビート、トウモロコシ。朝から晩までたくさんの作物を育てたものだった。

 たった三カ月間の、それも苦しい生活が、数十年たって「どうしようもなくいとしく思える」ことがある。永田は昭和五十三年、同級生と三十五年ぶりに北海道を訪れた。午後の到着時間を世話になった家に伝えると、既に老境に入った家長が朝八時から空港で待っていた。永田を見つけると転がるようにして抱き付いてきた。「月並みだが、懐かしいという言葉と涙しか出なかった」。

 「戦時下の高校に青春なし」と野末は後に日記に書いている。しかし、鈴木も永田も野末も、今になって語れる引佐農学校の思い出話を限りなく持っている。

(文中敬称略)
 

掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年  御殿場高 躍進の百年

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