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運動の中心になったのは軍部が東京都に設置した「大日本明朗会」。しかし、引佐地区には昭和十六年ごろ、細江町石岡で増産の研究を続けていた「農事実行会」が核となり、本部に先駆けて「西遠明朗会」を結成していた。その中心には早戸新一(32回)、黒瀬恭一(5回)、山瀬正平(25回)、影山林二郎(17回)=いずれも故人=ら、多くの同窓生がいた。 引佐地区の食糧増産技術は全国的に有名になり、引佐農学校と奥山方広寺で開かれた全国講習会には、各府県から二百七十二人もの指導者が訪れた。西遠明朗会のメンバーはさらに、全国を巡回して増産のノウハウを伝えていく。その指導者の一人が瀬戸春雄(87)=28回、細江町中川=だ。 瀬戸によると、当時用いた技術は麦が「広幅薄播(ひろはばうすまき)」、サツマイモが「丸山式」。「これだと普通は七、八俵しか取れない麦が十五―二十俵も取れたし、サツマイモなら通常三百貫(一貫は約三・七キロ)のところが千五百貫くらいできた」。 瀬戸は昭和十七―十八年に東京都、十八―二十年には千葉県で指導に当たった。どこへ行っても人々は飢えていた。瀬戸のことを「先生、先生」と慕う地域の人たちが出すみそ汁の中に、具は茶がらしか入っていないのを見たとき、瀬戸は「もっとたくさんの麦、もっとたくさんのサツマを作りたい」と心底思った。 間もなく日本は終戦を迎え、飽食の時代に食糧増産運動は少しずつ忘れられていった。「増産に関する研究はないし、世間の関心もないですね」。それでも今年、瀬戸はもう一度だけ丸山式でサツマイモを増産してみようと、知り合いから種芋をもらってきた。「忘れられたって、あの引佐から生まれた運動が多くの人の命を救ったことだけは事実なんですよ」。
(文中敬称略)
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掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 |