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1章 校史戦前編(8)完

復興の中で教育に希望


戦後教育が始まった。開放感の中、生徒のクラブ活動を指導する名倉(左から2人目)=昭和23年ごろ、県立引佐高農業部

 昭和二十年八月十五日、日本は戦争に負けた。その年の六月には浜松が大空襲を受けて一面焼け野原になったが、幸いにして引佐農学校は校舎も実習園もほぼ完全な形で残った。学徒出陣していた生徒たちも学校に戻ってくる。日本国中で人々が復興への道を探し始めた同じ時期に、同校でも、「民主主義」を軸とした新しい戦後教育の模索が始まろうとしていた。

 同校が全くの無傷で済んだ裏にはこんなエピソードがある。終戦前夜の昭和二十年二月、米軍機と空中戦を行った日本爆撃機が同校西側の畑に墜落、乗っていた五人全員が爆死した。校庭からその一部始終を見ていた中村規謙(71)=44回、引佐町奥山=は、「操縦士が最後の力を振り絞って落下の角度を変えてくれたから学校が助かった」と確信している。

 中村によると、日本機は当初、真っすぐ学校目掛けて落ちてきたが、「危ない」と思った次の瞬間、学校の手前で真っ赤な火柱となった。校舎の上に落ちたら、どれだけの被害があっただろう―。町の人たちは兵士らに感謝して、後に彼らを金指地区の戦死者慰霊祭に合祀(ごうし)する。

 敗戦で学校制度は急速に変わった。終戦翌日には、これから学校はどうなるか不安に思う生徒らが続々と校庭に集まった。生徒も不安だったが、戦前とは正反対の価値観に直面した教諭らも苦悩した。戦後教育が確立するまでの混乱期。名倉真五郎(74)=42回、細江町気賀=はそういう時期に同校の教諭になった。

 「当時の学校の雰囲気といえば、それまでの束縛から解放されたうれしさで変に浮かれていた」。戦地から帰った生徒が授業放棄をしかけ、校内に不穏な空気が漂ったことがある。運動場で芋を育てる教諭をあからさまにばかにする生徒もいた。「背広一着が三万円もするのに、初任給千九百円という“先生業”に愛想を尽かし、多くの若い教諭が学校を去った」

 しかし、こういう不安な時期は長くは続かない。「結局、農学校の生徒たちは目の前の畑を放っておけないのです」。敗戦による気持ちの荒廃を、農作業で乗り越えようとする生徒たちを見た時、名倉は「生徒が本当にかわいいと思った」。そして、新しい民主主義教育の中で、こういう生徒を支えてやろうと、一人心に決めた。

(文中敬称略)
 

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