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2章 校史戦後編(1)

学校に通えたことが財産


県立引佐高と県立気賀高の位置関係。両校は昭和23―26年に合併していた

 終戦直後から世の中は変わった。教育部門では、戦時中の国民学校が小学校に戻り、新制中学校ができ、現在と同じ6・3・3・4制が発足した。引佐農学校も昭和二十五年ごろまでは変革の渦の中で落ち着かなかった。同じ時期に同校は、組合立の気賀高等女学校と合併し三年後に分離する―という慌ただしい変遷もたどるが、当時の生徒たちは皆、「あのころは学校の仕組みより、人の価値観の変化の方が激烈だった」と振り返る。

 森下甲子夫(68)=48回、引佐町狩宿=と澄子(67)=気賀高1回=の夫妻も、そういう変化の時期に高校時代を過ごした。

 昭和二十年四月、甲子夫は今の小学校卒業の年齢で農学校に入学した。しかし、二年後の昭和二十二年、戦後の学制改革で中学校が整備されると、小学校卒業程度の生徒は中学に通わねばならなくなった。甲子夫は当時、「農学校にいられなくなる」と心配したが、中学は農学校の敷地内に併設され、その三年生に編入することで決着。翌二十三年には晴れて農学校へ戻ることができた。

 同年は農学校が組合立の気賀高女と合併した年でもあった。校名は県立引佐高校となり、本校は農業部、気賀高女は普通部と呼ばれた。農業部の生徒は午前中に普通教科を勉強し午後は農業実習を行うが、普通部では終日普通科目を勉強する。澄子は翌二十四年、同校普通部に入学した。

 ところが、澄子の場合、入学は県立引佐高だが、卒業は県立気賀高となる。結局、校舎が離れている不便から、昭和二十六年に普通部が県立気賀高として独立したからだ。引佐高の校名は県立引佐農業高校となった。ほんの三年間の合併―。「今だったら何と慌ただしいことかと思うが、当時はいろいろ変わるから何とも思わなかった」と二人は笑う。

 そんな時代には教育内容も大きく変わった。「昨日、戦時教育をした先生が今日は民主主義と言うんだもの。おかしいし、切ない授業だった」(澄子)。甲子夫は併設中学三年の時に初めて「民主主義」という言葉を聞くが、「それだっていずれ価値を失うだろう」と疑った。何もかもすごいスピードで変わる時代だった。だからこそ、二人は「当時、高校に通えたことを宝のように思っている」。その気持ちだけは五十年間変わらなかった。

(文中敬称略)
 

掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年  御殿場高 躍進の百年

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