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村田文平(67)=49回、細江町三和=は引佐農業高に在学中、家のミカン畑の片隅で数本の木を世話した。親や友人に相談しながら育てていると、「ある日、自転車に乗った先生が畑を見にきてくれた」。褒めてもらえたかどうか、今はもう思い出せない。「ただ、同じ果樹栽培に取り組む友人との連帯は、社会に出て農業をやるようになった後も続いた」という。 学校農業クラブというのはもともと、ホームプロジェクトで個人的な研究を深めた生徒が成果を発表する場として、一九一七年ごろ米国全土に組織されたグループ活動のことで、クラブごとに役員や規約をきちんと整えていた。戦後の日本はそれをそっくり導入し、授業の一部に位置付ける。昭和二十五年、学校単位でクラブができ、同年十一月には日本学校農業クラブ連盟を結成した。 引佐農業高で昭和二十六年度の農業クラブ会長を務めた名倉正雄(67)=49回、細江町気賀=は、愛媛県で開かれた第二回全国大会をよく覚えている。松山市近郊の小さな町に「温泉青果」という農協組合があった。そこではかんきつ類の果汁を搾るのに自動回転式の機械を使い、人間は機械の上の夏ミカンを手で押さえるだけだった。「ミカンの先進地では既に加工という新しい段階に入っている」。名倉の驚きは衝撃に近かった。 名倉は当時、「将来はミカンを四十トン生産する」という目標を持っていた。全国大会では同じように夢を持つ大勢の生徒と友達になったが、五年前、名古屋市内でそのうちの一人と偶然再会した。「確か長野県の農業高の生徒だった」。相手も今ではナガイモを手広く栽培する野菜農家。お互い高校時代は夢としか思えなかったことを、今は、手ごたえのある「生活」にしていた。
(文中敬称略)
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掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 |