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2章 校史戦後編(5)

期待感みなぎる工業併設


新設の機械科で実習に取り組む生徒ら=昭和42年ごろ、県立引佐高

 昭和三十七年は、日本の機械製品の輸出額が初めて繊維製品の輸出額を抜いた年だ。生活の中にも電気製品は少しずつ増え、同年三月にはテレビの普及率が四八%まで上昇した。国民の目が「工業」に向き始めると、創立以来、農業一本できた引佐農業高にも転機が訪れる。翌三十八年四月、同校は機械科を新設し校名を県立引佐高校とした。のどかでこじんまりした農学校は一挙にマンモス校になり、活気があって慌ただしい雰囲気に包まれた。

 初代機械科長を務めた佐藤繁治(91)=浜松市中島=は、昭和三十八年度の新学期が始まるわずか一カ月前に、前任校の浜松工業高で「引佐農高工業科創立準備委員」の辞令を受け取った。この時、引佐高では既に新年度の入学試験を終え、生徒は入学を待つばかりとなっていた。佐藤は赴任直後から新校舎や機械工場の設立に四苦八苦する。特に実習工場の敷地選定をめぐっては、既存の農業施設との兼ね合いで苦労したが、今となれば「それも昔のこと」と多くを語らない。

 機械科創立の年には園芸科も新設し、これまでの農業科、生活科と合わせて四科に計三百四十六人が入学した。上級生は二年生と三年生を合わせても二百七十一人。同年はこれまでにない生徒急増の年だった。

 工業重視の世相の中で、新設の機械科は脚光を浴びた。同科の第一期生、加茂正伺(53)=63回、引佐町奥山=は「それまで工業高校は浜松にしかなく、産業教育に対するあこがれがあった」と振り返る。生徒も教師も張り切り、学校には「何か、期待感のようなものがみなぎった」。

 一方、農業三科はどうだったのだろう。園芸科第一期生の戸田賢(53)=63回、引佐町田畑=によると、当時はもうかる作物に特化する国の「選択的拡大」の方針を受け、農家という農家がミカン栽培に乗り出す前夜。「引佐高にも自営のミカン農家を志す生徒が大勢入学してきた」。生徒の間には自信と誇り、よりよい農業を目指す意欲が確かにあった。「今にして思えば、農業が光を放った最後の時代だったかもしれない」。

 それぞれ希望に燃えた農業部門と工業部門。しかし、両者は相互不干渉の形で別々に発展を目指していた。産業技術科として両者が手を結ぶのはもう少し先の話となる。

(文中敬称略)
 

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