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2章 校史戦後編(6)

三方原農場を機械化


現在の三方原柑橘機械化農場。昭和39年春に生徒が植えた幼木は既に老木に近い=浜松市根洗町から細江町中川にかけて

 引佐高に機械科ができた昭和三十八年は、農業部門にとっても大きな転機の年となった。昭和十年に当時の生徒たちが汗を流して開墾した三方原農場を「柑橘(かんきつ)機械化農場」に作り替え、先端技術を駆使した新しい農業を実践する場とした。国の選択的拡大の方針を受けて全国の農家がミカン栽培に乗り出し、農業が従来のくわを振り上げる耕作からトラクターによる耕運、ハウス栽培などの機械管理農業へと姿を変えていったのもこのころだ。同校は試行錯誤する地域農業をリードする最後の役割を担った。

 この年の六月、当時はまだ珍しかったブルドーザーが引佐高にやってきた。同校の実習助手だった森口將年(56)=60回、細江町気賀=は急いで操作方法を勉強し、一人で三方原農場を整地することになった。そのころ農場は茶園で、森口は茶の木をなぎ倒し、小高い部分の土をえぐり取って谷に落とし、農場を二・七六ヘクタールの平地に整えた。

 整地は教師が行ったが、ミカンの幼木を植えるのは生徒の仕事だった。翌三十九年春から生徒たちは一本一本手で植えて、その後に近くのし尿処理場からもらってきた乾燥人糞(じんぷん)を肥料として加えた。「臭かったなあ」。当時の生徒たちに思い出を聞くと、皆、鼻にしわを寄せてにおいの話をする。

 年明けに機械化農場は完成し、六つのほ場に二千四百三十三本のミカン木が整然と並んだ。木と木の間には農業機器が通れる広さがあり、土を耕すロータリーやけん引式の消毒散布機が走った。スプリンクラーもあった。当時こうした設備は珍しく、周辺の農家はこの農場に「新しい農業の形」を見に来たという。

 月日は流れ、三ケ日町がミカンの一大産地となると、学校農場はもはや新しいものではなくなった。現在の農場長、高山巌(46)=浜松市村櫛町=と果樹担当の奥山朝英(58)=引佐町奥山=は十二年前、農場にハウスを作る時、「周りの農家にはほとんどハウスができていた」と振り返る。寂しい話だが、その中で卒業生が設営指導に来てくれたことが教師らの心を温めた。農協職員になった鈴木雅三(34)=82回、浜松市泉=だ。ここは「教師が土地を整え、生徒が木を植え、卒業生がハウスを整えた農場」。今年もきっとたくさんのミカンがなるだろう。

(文中敬称略)
 

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