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2章 校史戦後編(7)

農工併設で施設を整備


手作業で農場を運動場に作り替える生徒たち=昭和38年、県立引佐高の南畑実習場(現在の南部農場)

 引佐高が農工併設校となった昭和三十年代後半は、全国的に高校進学率がぐんぐん伸びた時期だった。あちこちに新設高ができ、既存高校も大幅に定員枠を広げて生徒急増に対応した。生徒が集まれば、それに見合う新しい施設が必要になる。引佐高はこの時期、新校舎や運動場、プール、体育館を急速に整備する。進学率の向上で、産業教育には直接関係のない一般の学校教育施設の整備が急務となっていた。

 施設整備について、同高には面白いエピソードが残っている。昭和三十八年の機械科創設に際し、当時の木下重一校長=30回、故人=は破天荒ともいえる施設の再配置計画を打ち出した。計画内容もさることながら、何より木下本人が夏休みに、農業部門の教諭らの家に「これから運動場と南の農場を入れ替える。文句があるなら学校に来い」と電話したことが教諭らの度肝を抜いた。

 木下の計画は畜舎や牛舎など農業施設のあった場所に機械工場を作り、農業施設を運動場へ移築する。新しい運動場は学校南側の畑を整地して作る―という内容だった。自分たちの施設が移築されては大変だ、と駆け付けた農業担当教諭らに向かい、木下は「運動場のどの部分がほしいか、各自石灰で描いとけ」と言い放つ。とても計画変更を求める雰囲気ではなかった。教諭らは仕方なく、言われるままに運動場で陣地取りをする。

 困ったのは体育教諭らだ。当時、同校に勤めた大石鉄夫(61)=浜松市若林町=は「運動場がなくては授業にならないし、まさかと思った」と振り返る。しかし、学校方針として打ち出された以上それに従うほかはなく、次の日からは生徒と一緒に南畑実習場の造成に汗を流した。石をどけて土を削り、その土をふるいにかけて埋め立てに使う。当時の生徒は働くことをいとわなかった。大石には「それが救いだった」し、今も引佐高の名は生徒の働く姿と一緒に思い出されるという。  木下の新運動場は後にまた農場に戻った。石灰を引いて陣地取りした農業施設も一部はなくなり、一部は再移転された。当時をしのぶよすがはないのに、「木下さんはどえらいことをやった」という実感は関係者の胸に強く残っている。まるで目の前に、あの農場が、運動場があるかのように、今も生き生きと語り継がれている。

(文中敬称略)
 

掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年  御殿場高 躍進の百年

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