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2章 校史戦後編(8)完

普通科志向で志願者激減


昭和40年代末ごろの引佐高。学校の低迷に教師や同窓生の多くが苦しんでいた

 引佐高に限らず、全国の農業高校が体質改善を迫られ始めたのはいつだったろう。ある時期から社会は急に普通科志向を強め、中学は偏差値による生徒の振り分けを徹底し、高校には普通科―工、商業科―農業科という暗黙の序列が出来てしまった。農工併設の引佐高には、工業科教諭が農業科を疎む気持ちと、農業科教諭が今後の農業を憂う焦燥感とが入り交じった。生徒は希望を失い、学校は荒れた。それは同校百年の歴史の中で一番暗く、苦しい時代だといわれている。

 引佐高が目に見えて落ち込み始めた時期について、元教諭の多くは「昭和四十年代の後半」と言う。“高学歴”がもてはやされ、多くの生徒が普通科を希望する。社会は急激なインフラ整備を続けていたから、機械科は辛うじて一定の人気を保った。が、農業科はだめだった。志願者は激減し、県内でも多くの農業高が普通科に転身していくありさまだった。

 当時、引佐高の農業科はぎりぎりの状態で存続を守っていたが、農業衰退の風潮の中、農工間の溝は確実に深まっていた。伝統を誇る農業科にとって、機械科は「母屋(農業)がひさしを貸してやっている」相手に過ぎなかったし、機械科にとって農業科は「工業の発展を妨げるお荷物」でしかなかった。職業高校軽視の風潮が強まると、農工両科の教諭は「学校を建て直したい」という気持ちで一致するが、それで両科が急に仲良くなれるわけはなかった。

 当時の母校を中学教諭の立場で見ていた田中栄(71)=44回、浜松市村櫛町=は「あのころ、引佐高は生徒に薦められない高校だった」と振り返る。田中が勤めた中学校には農業を志す生徒も、引佐高を志望する生徒もいなかった。母校を誇りに思う田中には胸のつぶれるような悲しみだったが、「子供の気持ちを最優先したら、普通科の高校を探してやるしかなかった。母校は選択肢ではなかった」という。

               ◇

 程なくして、同校を憂う気持ちは同窓生の間にもさざ波のように広がっていった。憂いは痛みにも似ているが、「今になって思えば、それは産業技術科が生まれる前の、陣痛のようなものだったのかもしれない」(元教諭)。少しずつ、しかし確実に、痛みの中から引佐高の新しい教育の胎動は始まっていた。

(文中敬称略)
 

掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年  御殿場高 躍進の百年

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