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そのころの農業高は「全国どこを見ても定員割れ。生徒も目的意識を失い、偏差値至上主義の中で存続の危機に瀕していた」。教育長協議会ではこうした現状を打開する案として、新しい産業技術教育の可能性が議題となった。しかし、全国的に関心は高いものの、積極的に取り組む学校はなく、樽井は「それなら全国に先駆けて、引佐で思い切った改革をやってやる」と心に決めた。 県教育長の了解を得た樽井は、次に電話に手を伸ばした。相手は文部省の教科調査官、平井眞一(66)=50回、豊川市=。それまでの学習指導要領にとらわれない教育を行うためには、文部省のバックアップが必要不可欠―と考えた樽井は、引佐高を同省の「研究開発指定校」にしてもらおうと考えたのだった。 平井は当時、昭和五十一年の職業教育改善委員会報告を受け、農業に関する学習指導要領の改定作業に取り組んでいた。省内にも農業高の現状に同情する声があることをよく知っていた平井は、樽井の電話を受け、こう思った。「前例のないことをやれば失敗するかもしれない。だが、母校が滅びていくのを見るのは耐えられない。ならば改革にかけてみよう」。 翌日から、平井は引佐高に産業技術教育が必要な理由を何十枚ものレポートにまとめ、上層部の説得に取り掛かった。一方、樽井は県教委に理解を求め、母校にハッパをかけ、関係機関を精力的に回った。二人の熱意に押され、文部省は引佐高を昭和五十五、五十六年の産業教育研究委嘱校にする。これは予算のない名前だけの委嘱だが、指定校獲得のための実績づくりには最適だった。 「お互い、よくやったな」。委嘱が決まった後、二人は電話でねぎらい合った。本当の戦いはこれからだが、取りあえず下地はできたのだ。
(文中敬称略)
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