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普通科志向が強まり、職業高校を軽視する風潮が始まった昭和五十年代のある年、同校は慣例になっていた学校紹介のための中学校回りをやめた。「頭を下げてやる気のない生徒に来てもらうより、本当に学びたい生徒を集める」狙いだったが、結果は、秋になっても定員八十人の農業科に希望者は十八人―という惨めなものだった。 当時の機械科長、長谷川清太(76)=浜松市中野町=は振り返る。「中学回りなどしなくても機械科には生徒が集まった。教師も浜工や城北工業と肩を並べようと頑張っていたから、いきおい『悪いのは農業』という意識が強くなった」。機械科にとって、農業科と一緒に新しい産業技術教育を模索することは、「じり貧の農業と同じ位置に機械科が落ちていく」ことを意味する。当然、研究に対しては猛烈な反発が巻き起こった。 社会には普通科を頂点とする偏差値ピラミッドができ、学内には機械科―農業科という学科別の序列がある。苦しい状況の中で農業科長を務めた池田佐智男(68)=48回、三ケ日町宇志=は言う。「機械化の進む農業部門に工業の知識は必要だ。しかし、機械科は農業科など必要ない。伝統ある引佐高の『母屋』の農業科にとって、この関係は耐え難いものだった」 互いにののしり合う職員会議。新しい産業技術教育のビジョンは一向に見えず、長谷川も池田も「けんかもんかの職員をまとめることで疲れ切っていた」。何とか両部門が相互に乗り入れる授業だけは実施したが、昭和五十六年に文部省に提出した報告書は「お粗末なものだった」という。 ただ、議論を通して教員らは同高の置かれた状況を正確に把握した。今、何をすべきかも少しずつ分かってきた。何より「このままでは生徒がかわいそうだと、だれもが思うようになった」。
(文中敬称略)
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