<20>

3章 産業技術科の設立(3)

県を動かした小池の秘策


全国から教育関係者を迎えて行った研究発表会=昭和59年11月、引佐高

 二年間の研究委嘱校を経て、昭和五十七年に引佐高は文部省の研究開発指定校となる。これは既存の学習指導要領にとらわれない教育を可能にする「自由のパスポート」だったが、逆に言えば、「何もないところから新時代の教育を生みだす苦労のらく印」でもあった。この年、同校校長に就任した小池謙吾(73)=周智郡森町=にはそれが痛いほど分かっていた。そして指定を受けた以上、三年間で結果を出さねばいけない、ということもよく分かっていた。

 小池が最初に手掛けたのは、地元企業の関係者を集め、高校に何を望むかアドバイスしてもらうことだった。産業技術教育とは何か―その目標と内容を検討する時、「教員が過去のやり方に固執するようでは困る」からであり、機械科、農業科と線引きしていがみ合っている現状に危機感を持たせるためでもあった。

 が、そこで出た意見は予想以上に厳しい。「今の職業高の教育は何だ。社会では全く役に立たんじゃないか」。企業家らの遠慮ない苦言は教諭らを打ちのめすが、その中で指摘された「数理情報教育の必要性」は同校の研究に一つの方向を示した。教諭らは吹っ切れて新しい教育課程を組み、翌五十八年には産業技術コースを新設する。

 教員の意識改革と平行し、小池は「県教委をせっつく」という難題にも取り組んだ。指定を単なる研究に終わらせず、同校で産業技術教育を制度化する。そのために必要な施設を整えてほしい―という学校側の主張に、県教委は一貫して消極的だった。だが、教育における設備の必要性を重々承知していた小池は考えた末、秘策を展開する。

 朝、開庁前の暗いうちから県教委で担当課長を待つ。課長が来ると、目の前に整備してほしい新施設の図面を広げる。もちろん相手にされないが、小池は夕方までフロアで頑張り続けた。何日かたって、課長はついに横を向いたまま、「そこに座っている男の図面をだれか見てやれ」と言った。「これで決まり」。新施設整備費は昭和五十八年度の県予算に盛り込まれることになる。

 翌五十九年秋、ぴかぴかの産業技術実習棟で引佐校の研究発表会は行われた。全国から訪れた見学者の賛辞を聞きながら小池は思った。「この生徒の生き生きした表情はどうだ。この顔を見るためにいつの時代も教師は研究をやるのだ」

(文中敬称略)
 

掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年  御殿場高 躍進の百年

静岡新聞へ