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もともと、新しい産業技術教育の模索は衰退してゆく農業教育を救うために始めたという意味合いが濃く、機械科の中には「早く研究を終わらせて本来の授業に専念したい」と考える教諭も少なくなかった。この時、小野は取りあえず、「気持ちは分かった」と言って引き下がるが、心の中ではひそかに、同校の教育課程を抜本的に変える計画を練り始めていた。 当時の同校は産業技術コース二クラス、農業部門の園芸科、生活科が各一クラス、機械科二クラスという編成だった。小野はまず産業技術コースを正式な「科」にする申請を行い、研究期間が終わっても産業技術教育をやめるつもりのないことを示した。その上で、農業教育に理解を示してくれた機械科講師の長谷川清太=前出、前教頭=に相談に行く。 「長谷川さん、私は全科を産業技術科にするつもりだが、あんたは賛成するかね」。小野の質問に長谷川はこう答える。「今ここで賛成はしないが、校長が方針として出すなら、どんなことがあってもついていく」。これで、小野の腹は決まった。翌六十一年四月、第一回職員会議で小野は方針を示し、ざわつく教諭らに協力を依頼した。 その年、同校は四十回以上も会議を行った。小野の考えに対しては、機械科だけでなく農業二科からも反対が出たが、そういう時、小野は決まってこう頼んだ。「産業技術科と機械科と農業科があれば、また三科の間に序列ができる。自分たちのことより、まず生徒のことを考えてくれ」。 秋口まで話し合いは続き、翌六十二年、幅広い教育を行う産業技術科が六クラス誕生する。教師にとって一番大切な生徒は二百四十人も入学してきた。文部省の研究委嘱から丸七年―。長い研究はようやく終わった。
(文中敬称略)
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掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 |