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西遠地区に一大ミカン産地を形成したのは昭和三十年代になってから。戦後の食糧難を脱し、国内では空前のミカンブームが巻き起こった。山岡照平=26回、故人=は県柑橘試験場西遠果樹分場長として産地の確立と生産農家の育成に尽力した功労者。 引佐農学校を卒業後、農林省園芸試験場で学び、中国・南京の軍農場で軍用野菜の栽培に従事。戦後は静柑連(現県経済連)西遠支所長などを歴任した。 引佐郡をはじめ浜名湖沿岸で国有林がミカン園として次々に開墾される中、山岡は引佐高の卒業生をはじめ多くの若手農家を開墾地に集めて開園指導に当たった。 「学生時代の食糧増産体制から抜け出し、多くの農家がミカンに託した。みながミカン作りに意欲を燃やし、華々しい時代だった」。静柑連西部支所柑橘委員長を務めた中村忠義(70)=45回、細江町気賀=は当時を振り返る。 中村のほか、引佐町の故杉山敏男(31回)、杉田重二(37回)、田中政雄(41回)らも山岡に師事し、後に同柑橘委員長として活躍する。三ケ日町では町柑橘生産委員長の樋田稔=38回、故人=が生産体制の立て直しを図った。 一方、浜松市北部地域では西遠柑橘開拓農協の伊藤龍男(84)=31回、浜松市都田町=が昭和三十年に西遠地区で初めて開墾にブルドーザーを導入した。「多くの友人たちが戦争で命を落としていった。生き残ったわれわれは生きた証を残さなくてはならない」。いまなお現役でミカン作りに情熱を傾けている。 名倉正雄(67)=49回、細江町気賀=は昭和四十三年に若手農家で「細江町農民組合」を設立。名古屋市内の生活協同組合と直接取引を始めた。六十三年からは米や野菜なども生協向けに出荷している。
(文中敬称略)
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掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 |