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4章 農業に残した足跡(2)

ハウスミカンなど転換へ


中村辰穂のハウスでは早くも6月中旬の出荷に向けてミカンの実がなっている=細江町気賀
 昭和四十年代後半に入ると、西遠地区でもハウスミカンの栽培が始まった。“ミカン恐慌時代”と呼ばれた昭和四十年代初頭の暴落を受けて、ミカン農家は生き残りに向けた模索の時代が続いていた。

 細江町では昭和五十六年に中村辰穂(60)=56回、同町気賀=が初めてハウスを導入した。高校卒業後、父親の跡を継ぎ農業に従事した中村だったが、「ミカン栽培だけでは生活できなかった」。ハウスミカンは高付加価値と周年供給が最大の魅力だった。

 栽培技術では課題も多かったが、試行錯誤を重ねて生産性を向上させた。「弁当が楽しみで通っていたが、分からんところで農業の基礎が身に付いていたんだろうな」と高校時代を振り返る。

 翌五十七年には細江町農協ハウス部会を設立。後輩の中村洋一(57回)や内山敬一(64回)、鈴木利幸(69回)らが続き、細江町は後発ながら県内屈指の産地に成長した。

 引佐町の杉山恭一(64)=53回、引佐町栃窪=も間もなくハウスミカンの栽培を取り入れる。「高校のころは作業実習でよく汗をかかされた。“質実剛健”。技術的なことはともかく怠けず働くことを教わった」。青島ミカンを主体に低コストで高品質なミカンの生産に取り組み、ことし二月には県高能率柑橘園地コンクールで県知事賞を受賞した。

 一方、昭和四十年ごろ、細江町で誕生した「白柳ネーブル」が市場で脚光を浴びた。白柳ネーブルを見いだした白柳辰雄氏の地元伊目地区を中心に加茂修(67)=併中2回、細江町気賀=や菅沼雄一郎(58回)、松下勝雄(60回)らが第二世代としてネーブルの普及を図る。

 「終戦前に親父を亡くし、母親を助けるため通った引佐高でいい友達に恵まれた。一生をネーブルとともに送れて幸せだ」と加茂は語る。

 奥浜名湖地域ではネーブル園が瞬く間に広がっていった。

(文中敬称略)
 

掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年  御殿場高 躍進の百年

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