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4章 農業に残した足跡(3)

開拓地に「やぶきた」導入


手製のレール式茶刈り機で新茶を摘み取る長谷寿一=浜松市花川町
 浜松茶手揉保存会長を務めるマルイ製茶、長谷寿一(63)=53回、浜松市花川町=は興誠高から二年の時に編入した。「農業への思いを捨てきれなかった。でも校長室に入ると、しかられている時みたいに震えてきた」。農業にかける情熱を便せん二枚にしたため、当時の関根貞義校長に転入を“直訴”し、引佐高で農業の基礎を学んだ。

 引佐郡内や浜松市北部では昭和四十年代まで水稲やイ草に茶、酪農、養豚、養鶏などを組み合わせた多角的な農業経営が主流だった。

 長谷も卒業後しばらくは養鶏や養豚などを手掛けたが、昭和四十六年から「お茶一本で食べたい」と家業の製茶業に専念する。浜松茶農協青年部長を務めながら、全国茶品評会をはじめ数多くの品評会で優秀な成績を収めた。

 平成四年には浜松茶手揉保存会を設立し、製茶技術の向上を図る。「製茶機械はマイコンの数字を見るだけのようだが、最後に調整するのは人間の勘」と力を込める。

 三方原台地で茶の栽培が本格的に幕を開けたのは昭和二十年代。根洗松開拓農協では昭和二十五年に樽井孝蔵(81)=34回、浜松市根洗町=らが開拓地にいち早く「やぶきた」を導入した。

 樽井は組合長として満蒙開拓青年義勇軍の訓練生や戦災者復員、地元農家の子弟らとともに根洗地区に“入植”し、松林を切り開いた。

 同じころ沖村製茶の三代目、沖村清(83)=33回、細江町中川=が地元茶農家に「やぶきた」の普及を図る。「農学校を出た時分はお茶屋をやるつもりはなかったんだがなあ」と当時を振り返る。

 高校を卒業後、朝鮮平壌師範学校を経て小学校の教員になるが、終戦後間もなく父親の急逝を受けて家業を継ぐ。昭和四十二年からは細江町議会議長として圃場整備にも取り組んだ。

 浜松茶農協では沖村に続き、川合富雄(46回)、鈴木国松(50回)らが組合長として茶業の発展に努めている。

(文中敬称略)
 

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