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「『質実剛健、勤労愛好』の校訓は、働くことをいとわない自分の人格形成に大きな影響を与えたと信じている」。卒業生として唯一、国政の場で活躍した斉藤正男(82)=33回、浜松市広沢三丁目=は語る。 「自転車で一時間の道のりを毎日通った。冬の剣道の寒げいこは午前六時からの早番と七時からの遅番の両方のけいこに参加した。手袋は厳禁。片手ハンドルで空いた手を交互にこうやって」。自宅応接間のソファで、片手をズボンのベルトの内側にはさみこむようなしぐさを見せた。 斉藤は浜松師範学校に進み、念願の教職へ。「遅れていた引佐の教育レベルを何とかしなければ、というのが政治家へのきっかけ」。昭和三十年の県会議員選挙に初出馬して当選。三期県議を務め、四十二年の衆議院選挙に初当選。五回連続当選を果たしたが、六回目の五十五年、戦後初の衆参同日選挙で苦杯をなめた。当初から敗戦を覚悟。議員会館の自室の荷物をすべて片付けて、翌日開票を迎えた。 県議を経験したOBは斉藤も含め、三人。杉浦卓朗=26回、故人=は県議が一期だけ。気賀町長(合併前)、細江町長として長年、手腕を発揮した。野沢義雄(52)=64回、細江町小野=は平成七年、「自治会やPTAなどの地域活動の延長として」県議選に初出馬、初当選を果たし現在、二期目。 一年生の時、短歌を詠み合う国語の授業があった。クラス全員が選んだ一席は「疲れたる わが母見つつ 夢ふせて ああ離れてならじ この村を」。野沢は今も級友が詠んだこの歌をそらんじている。当時の生徒たちの気分をよく表していたから、という。
(文中敬称略)
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掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 |