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昭和十四年三月十四日に引佐農学校を卒業した五十五人の卒業後の予定進路を記した名簿だった。農業に従事するという生徒が大半を占める中で、師範学校や教員養成所に進学するという生徒も目立った。波多野は「結局十二人が何らかの形で教職についた」。波多野自身も三重大に進み終戦後、教職に。母校・引佐高校長の後、オイスカ高初代校長に迎えられた。 引佐郡下の優秀な人材が集まった引佐農学校(高校)には、教員として地域の教育界を引っ張ってきた卒業生も多い。 波多野の同期にも磐田南高校長を務めた安間祐一(80)=引佐町三岳=、浜北市教育長だった池谷豊(80)=浜北市於呂=、三ケ日西小校長を務めた竹上卓次(79)=三ケ日町三ケ日=、浜松市北星中校長だった藤田靖(79)=浜松市庄和町=らがいる。 一方、校長となって再び母校に戻った卒業生は波多野をはじめ、木下重一=30回、故人=、小野勝己(71)=44回、浜松市半田山=の三人。波多野が校長を務めた時、創立八十周年を迎えた。 高校の校長では、ほかにも農業経営高校長だった樽井参思郎(75)=40回、細江町三和=、天竜林業高校長だった堤英(68)=48回、三ケ日町大崎=、文部省教科調査官を務め、愛知県教委指導部長などを務めた平井真一(66)=50回、豊川市=、県教委で「ハロー電話」創設に尽力した黒瀬良夫(68)=48回、静岡市用宗=がいる。堤と黒瀬は同級生。敗戦の年の昭和二十年に併設中学一期生として入学した。敗戦、学制改革という時代の波にほんろうされた。 障害児教育分野では引佐町教育長となった井上喜義(83)=33回、引佐町伊平=、馬場助信(68)=48回、引佐町的場=がそれぞれ浜松聾学校長を務めた。
(文中敬称略)
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掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年 |