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6章 名物教師(1)

生徒指導に尽力の2人


在りし日の河野文圭

引佐高百年の歴史は「記憶に残る恩師たち」の歴史と重なる。個性的な風ぼうや豪快な性格で、長い年月を経た今も「名物教師」として語り継がれる人々がいる。一分の隙(すき)もない厳しさを貫いた故本居秋津=昭和二十―二十九年に在職=と、“隙だらけ”とも思えるほど開けっ広げだった故河野文圭=昭和十六―四十一年に在職=。二人は共に戦後の生徒指導に異彩を放ち、多くの教え子らの脳裏に強烈な存在感を残した。

 本居の思い出話には必ず、真っ白なワイシャツとプレスの効いたズボン、毛織りの背広―のイメージがつきまとう。国学者・本居宣長の直系子孫で、戦争末期に東京都から石岡(現・細江町)に疎開してきた本居は、物資の乏しい時代にも常にきちんとした身なりを心掛けていた。「当世一流の先生」「銀座に出したって恥ずかしくない先生」。当時の生徒たちは口々にそう言った。  国語と漢文を担当し、よく響く声で朗々と詩を詠じた。道義に反することは一切許さない態度、悪童らも一目置いた威圧感など、本居は確かに厳格な教師だった。ただ、「その厳しさの裏にはいつも、決して口先だけでない温かさがあった」ことを、平井眞一(66)=50回、豊川市=ら教え子の多くが気付いていた。


在りし日の本居秋津

 一方の河野は「コンチイン(=金地院)」の愛称で親しまれた。寺の住職で、丸刈り頭と黒縁眼鏡がトレードマーク。だれにでも心の内をすべてさらけ出す人柄は、本居とは全く別の形で多くの生徒を引き付けた。

 河野も国語教師。文芸誌や学校新聞を次々に発行し、生徒に作品を募っていた。本居が自由に甘えない強さを教えたのに対し、河野は「自分の言葉で表現する自由」を説いた。「小説や詩、短歌など表現方法は何でもいい。大切なのは自分の口で語り、その言葉に責任を持つこと」。教え子の一人で、後に自らも国語教師になった田中栄(71)=44回、浜松市村櫛町=は、この時の河野の言葉を忘れることはないと言う。

 全く性格の違う二人。そんな二人が、生徒の記憶の中では「人生の師」という一つの言葉で結び付いている。

(文中敬称略)
 

掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年  御殿場高 躍進の百年

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